3月の読んだ本、長くなってしまったので2つに分かれます。うーんやっぱりブログの形式として1冊ずつの記事にした方がいいのかな~
『論理的思考とは何か』渡邉雅子
論理的思考は一つではない。
これまでわたしは結論を先に述べて次にその理由を述べるなどの方法論を「論理的思考」であると思い込んできた。だがしかし、効率的であることを是とする経済の場でその方法は評価されるものの、実は目的を異にする場や別の文化圏では、まったく論理的ではないとみなされるのだという。……と本書の始めに明かされ、もうここまで読めばこの本の続きを読まずにはいられなくなる。
硬そうな本なのだが「論理的思考とは何か」というテーマなだけあり文章がものすごく分かりやすい。しかもページ数が少ないのですぐ読み終わるし、仮に部分的にしか読めなくても、目から鱗が落ちる知的興奮は十分味わえる。読了なんぞした日には、なんだかそれだけで自分の頭がよくなった気がする、なんともすばらしい本だ。
個人的に知らない世界すぎておもしろかったのはフランスのバカロレア教育で叩き込まれる作文構成術の章で、問題提起にたいする一般的な見方、それに反する見方、それらを総合する見方の3つの視点であらゆる可能性を吟味することが求められるという。しかも結論を出せばそれで終わりではなく、我々自身もまたフランス革命という長い理想の追求の歴史の一部であり、思考はこれからも続く……という考え方なのだそうな……というあたり、なるほどたしかにフランス革命ミュージカルのエンディングがキャストみんなでてきて観客に向かって何かを問いかけて終わるわけですね……と厳密には合っているか分からないのだが自分なりの腑に落ち方をした。
またわたしの先入観では「非論理的」と直観しそうな特徴がイランでは論理的な作文のテクニックとしてすすめられているらしいのもめちゃくちゃ面白い。感情の高まりによって結論を共有するとか。でもたしかに宗教という「規範」によるまとまりを重視する社会でそれはある種の「論理」であろうとわかるし、実際に多言語・多文化の人がまとまるための一つの共通解であるのだな、宗教とは……。
そしてもちろん日本の作文教育の特徴も紹介されている。たしかに自分の職場でも答えのでない打ち合わせを延々と続けているとき、会議のメンバーはまさに本書でいう日本的な思考の辿り方で会話をしているな~。。本書はこの日本的な論理的思考についても長所を認めており、場によってそれぞれの思考法の型を使い分けることを推奨している。仕事というシーンにおいてはこの日本的な思考が有用かどうかは意識的に使い分ける必要はあるとのことだが、仕事の場だからといって効率的なアメリカ式が必ずしも常に有用とも言い切れないところが実践ではむずかしい。
『脳の本質』乾敏郎 門脇加江子
仕事中、いったいなんでこんなにわたしはストレスを感じているんだろう?と思ったとき、『脳の本質』に書かれていることが面白かった。脳は不確実性が増加するほどネガティブな感情を反応させると。そう言われてみれば、今の仕事は意思決定権を持つ人間が多方面から絡み合っていて、対人コミュニケーションの不確実性があるうえ、要件がなかなか決まらないし、他人への対応に追われて自分のタスクの完了予定が立てられない時間管理面での不確実性まである。そっか、脳がそうなってるならいくら頑張ってもストレス感じるのは仕方ないな……。
「脳の本質」とは脳そのものが機能として「予測」を行えるということがミソのようだ。感情面で言うなら、うまく「予測」が行えないときにネガティブな感情が生まれる。それなら経験を積めば積むほど、歳を重ねれば重ねるほど、わたしの脳は多くの「予測」が立てられるようになっていくだろう。経験を重ねると単にうまく立ち振る舞えるようになるだけでなくて、メンタルまで強くなっていくメカニズムってこういうことなのか。
感情は内臓感覚皮質の内受容感覚と関係が深いというのも、文字通り腑に落ちる話で面白かった。お腹減ったり体調が悪いときに感情が元気になることってないですからね。いやこう書くと当たり前の話なんだけど、実際にネガティブの渦中にいるときって、つい自分の外側に解決策を求めそうになる。そうではなくて、脳をコントロールする意味でもメンタルが落ち込んでるときには自分の内臓をケアすることがまず第一に有用なんだなと。
『ユダヤ人の歴史』鶴見太郎
先述したツヴァイクの本を読み、本当にこのユダヤ教を信仰する人たちの信仰心とは一体どういうところからくるものなのだろう…という気持ちになっていたので、ちょうど新刊だったこちらが目に入った。
神への感情が生活に根付いていないわたしがその信仰心を理解することはできないが、その来し方を通史として読めたのは大変学びになった。やや遠回りではあるが、今イスラエルがやっていることの背景を理解する一助にもなるのでその点でも。
ツヴァイクの小説に描かれているように儀式や律法を重んずるというのはユダヤ教の確かに特異な面ではあるけれど、今現在起きていることも含め大文字の歴史が動く場面は様々な条件の組み合わせであると。歴史の中で特定の人や属性を指さして諸悪の根源だと断罪することはできない。それはそれで、かえって人類だれしもが抱えている罪のどうしようもなさに途方に暮れる気持ちにもなるけれど、とはいえ罪は罪である(あった)とひとつずつ解きほぐして人類全体が向き合うべきではあるのは確か…。
そしてそのためには国家はある種のロールを演じてでも、平和のためのパフォーマンスをすべきではないのか、たとえ国家に役割があるとしたらそのためにあるのではないか…ということを考えました。


