耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

時代に殺された女の子~マギー・オファーレル『ルクレツィアの肖像』

『ハムネット』を読んで芽生えた著者への信頼(この作者の別の作品も読んでみたい!という)、そしてまたしても好みの題材(わたしは16世紀なかばぐらいの宮廷ものって興味があって好きなんですね~)。絶対読みたいと思って楽しみにしていた本が予想以上に面白かったという幸福!

1560年、フェラーラの公爵に政略結婚で嫁入させられたたった16歳の女の子が、翌年には不審な死を遂げた。Wikipediaの本人のページすらたった数行で済まされてしまっているような"史実"の裏側に、もしかしたらあったかもしれない物語。

貴族のお姫さまとして生まれたら、必要とされるのは一人の人間としての意思や才能や努力ではなく、産む機能としてだけの健康で若い体。そういう結婚が常識だった世界で、絵を描くのが好きで好奇心が旺盛で、たったひとり父が飼っている虎の首を撫でに行くような女の子が、どんなふうに生きていたか。知りたくても何も知らされなかった彼女の目から見た世界が細密に、豊穣に語られる文章に魅了される。展開はスリリングでページをめくる手が止まらないのに、終わりが近づくにつれてこの物語が終わってしまうことが寂しくなる。

1560年といえばフランスでは国王アンリ2世が不慮の死を遂げ、10代で身体の弱い皇太子フランソワが即位して間もない頃。ただでさえプロテスタント弾圧等の宗教問題で揺れていたフランス国内はさらに不安定化していた。

ルクレツィアの夫となったアルフォンソはこのアンリ2世のもとで戦闘に加わっていたというから、プロテスタントである彼の母親と姉が故国フランスに帰ったことで、世継ぎのできない彼の焦りがすなわち一族の受け継いできた領地を失う恐怖、それだけでなく領地内でフランスのようにカトリックとプロテスタントの殺し合いが発生するのではないかという懸念につながっていくということは、まあ分からないでもない。

ただこういうことは、小説の中では語られていない。ルクレツィアは何も知らされない。なにもわからないまま、ただ自分の産む性としての義務を押しつけられるだけだ。

ルクレツィアからみれば、結婚当初は優しく感じた夫は結婚生活が進むにつれ、そして領地周辺の情勢がきな臭くなるにつれて、焦りをぶつけるようになる。しかもまだあまりにも若い妻には一切の相談も説明もない。妻は夫に黙って従っていればいいと高圧的に繰り返されるだけ。ただ、最初からこんなふうだったわけではない。最初はお茶目で、優しくて結婚したことが幸運な相手にさえ思えていたのだ。どうしてこうなってしまったのだろう。結婚と同時に即位したばかりで、自分の宮廷を掌握し権力を誇示することが、すなわち物質的な力をふるうこととイコールでつながっていく。公爵がアルフォンソ1世として権力を確立していく過程と、物語の進行がシンクロする。

 

最初に書いたようにわたしは16世紀なかばごろの宮廷ものが好きなんですけれど、それはおもにスコットランド女王メアリ・スチュアートと英国にて絶対王政を誇ったエリザベス一世の若い頃を描いたフィクションに好きなものが多いからであって、正直読み始めた最初は「ルクレツィアってだれ?」というところから始まる。星の数ほど研究され、物語の主人公になりまくってきたであろうエリザベスやメアリ・スチュアートと違って、ほんの一瞬「公爵の妻」としてしか歴史に姿を現さず、何の権力も振るうことなく死んでいったルクレツィアは、きっとほとんどスポットが当たってこなかった女の子だ。

こういう大文字の歴史が説明されなくても、現代のわたしたちと同じ身体をもった男女が、現代のわれわれと全く異なる論理で子をなすことを必要としている、ということを理解させる。そしてその当時の社会的義務を一切果たすことなく死ぬことになったルクレツィアの恐怖と苦しみに、読者を感情移入させていく手腕がこの小説の凄みだと思う。

 

※以下、ネタバレの上本文の内容に詳細に触れる記述があるため、本書を未読の方は絶対に読まれないようお願いいたします。

 

 

 

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この話、とりあえず読了した瞬間思ったのは「エミリアかわいそうすぎん??」ということ。(最後まで読んだ人は絶対にほとんどみんな直感的に思う気がするんですが……。)

ただそこでちらっと頭に浮かんだのが、エミリアとルクレツィアが幼少時、いっしょに遊んでいるときにひっくり返った鍋のやけどを負った、というエピソード。

最初に読んだとき、実は幼少時に火傷したのはルクレツィアで、召使たちの隠蔽工作のためまだ物心のつかない女児たちがすり替えられた……って話になるのかなあと思ったりもしたんですね。そういう話にはならなかったけれども。

だけど、やっぱりそういう妄想が許される余地はあるよね?とは思っていて。つまりエミリアとして死んだのはやっぱり、遺伝子的にはコジモ・デ・メディチの娘であるルクレツィアだったのかもしれないなあ、と。

ルクレツィアの「ルクレツィアとしての」人生って、厨房に始まり厨房に終わっています。最初の記憶は厨房だし、ルクレツィアであることを止めたのも厨房。ならばやっぱり象徴的な場所とも感じられるし……。

だとしても殺された娘がかわいそうなことには変わりない。ただ、神に授けられた運命とか見えざる手が書いた大きな物語というものがもしあったのだとしたら、コジモの娘として生まれた女の子は結局それを全うすることになったという話……?という妄想もできるなあとは思っている。

 

全体的に、細部のエピソードのひとつひとつが印象的で面白い小説なのだけど、読み進めるとそれが伏線になっていたことにふと気づかされる瞬間もあるのが楽しいです。

たとえばルクレツィアの母エレオノーラが、ルクレツィアを受精したときに母親である自分が上の空だったせいでみそっかすが産まれちゃったのではないかと悔やむところ。幼少時のルクレツィアの性格を説明するためのちょっとした細部なのかなあと思っていたのだけど、妊娠出産まわりにそういう迷信的なものが信じられていた時代だったのだよなあ、という説得力をもたせるための伏線でもあったということに、当時なりの「不妊治療」に励むルクレツィアとアルフォンソのくだりで気づく。というか、人工授精で赤ん坊が誕生する現代においてさえ、妊娠出産まわりって根拠のあやしい迷信や風説が信じられやすい界隈なのだから、いわんや当時をやですよね……。

 

アルフォンソの肩を持ちたいわけではないのだけど、ルクレツィアにとって二重の不運だったのはこれが彼にとって最初の結婚だったということだなあとも思う。

結婚生活1年目って、たとえ彼らのように「結果を出す」ことが求められる、つまりただただ世継ぎを生まればそれでOK、生まれなければ何であってもダメという時代や立場の人であっても、お互いにどんな人柄なのか・どんなときに感情が動くのか・どんなふうにコミュニケーションするのが最適なのか・ということをすりあわせていく最初の時期であることは変わりなく。

たとえ夫が上、妻が下という男尊女卑的な思想を強固にもっていたとしても、お互いが別個の人間である以上それは変わらないはず。その点、アルフォンソは夫としてはかなり未熟なまま妻を殺すという選択をとってしまうところが(彼個人の意思ではなく、時代の要請だとは思うものの)夫が妻より上という思想をもってしまうのは妻だけでなく夫にとっても不幸なことだよなあ。

とはいえ身体的にも医学技術的にも子をなすことができない体なのに、本人の努力とは関係なくそれが欠陥とみなされてしまうという時代であることがそもそも不幸なのだけれど。

著者あとがきにさらっと記されているメディチ家のきょうだいたちのその後の妻殺しエピソードにも戦慄する。これって当時のカトリックは離婚が許されてなかったため、妻が意にそわない場合周囲にバレバレであっても殺すしかなかったってことなのかな……。だとするともはや離婚するために独自の国教を作ったヘンリー8世がマシに思えてくる……(いやヘンリー8世も結局何人か殺しているが…)。