読んだ本
『救出の距離』サマンタ・シュウェブリン
この田舎にある「毒」は文字通り人間のあやまちによって作り出された農薬、化学物質かもしれない。村上春樹の『アンダーグラウンド』で先日読んだサリン事件の被害者の人の症状を思い出すところもあった。飲んではいけない水、障害のある子ども、訳のわからないまま病院に列を作る住民たち。そうと知らないで体内に取り込んでいた水や空気が毒だったと後にならなければ分からないという不安が、妊娠出産そして育児という責任とリスクを負う女たちの傍らには常に佇んでいる。
「毒」をもっと象徴的なものととらえれば、”育児”という取り返しのつかない失敗がいつ起こるかもしれない不安に満ちた恐ろしい仕事に、四六時中向き合い続けなければならない女たちの不安だ。「救出の距離」、子どもに今この瞬間なにかあったとして自分が助けに駆けつけられる距離にいるか常にはかりつづけている感覚、子どもを一人で見ていたことのある人ならだれもが一度は感じたことのある感覚ではないか。
自分を振り返ってみても、出産してから恐怖系の小説をよく読むようになったと思う。もしかすると現実に対して感じている薄っすらとした不安を言い表してくれる言葉をずっと探してもいたのかもしれない、とこの本を読んでいて気づいた。母親になったことでわたしの人生においては他に類を見ない幸福を得たことは間違いないと言えるが、同時にいつかそれを失うかもしれないという不安を抱え込んでもしまったので。
『その子どもはなぜ、おかゆの中で煮えているのか』アグラヤ・ヴェテラニー
その子どもはなぜ、おかゆの中に入ったか。
罰として。
あるいはおかゆと友だちになるため。
あるいは神さまに食べられるため。
15歳になるまで読み書きの教育も受けられず、社会集団に属することもできず、共産主義時代のルーマニアから難民として逃れ、サーカスで生活の糧を得ながら流浪の生活を続けていた「わたし」。
その心を救う言葉を自分の外に探すこともなければ、自ら紡ぎだす方法も遮断されていた少女時代とはどんなだっただろう。
おかゆのなかで煮えている子どものメルヒェンを除いては、ということだが。
あまりにインパクトのあるタイトルが忘れられずに読んだ本だけれど、日本で安穏と育った私がおかゆのなかで煮えているこどものことが気になるのと、「わたし」が気になるのとは同じではないだろう。
「わたし」にとってはその子どものことを考え、その子どもに自分を重ね合わせるのが唯一自分の心を現実の外側に飛ばす手段だったのだから。
この本の文章は終始シンプルで、原始的ともいえる叫びのようだが、それなのに彼女自身の苦しみがそこにあるかどうかは一見すると表面化されていない。
言葉とは痛みから逃れる手段であり、立ち向かう手段であるとわたしは思っていた。だけどそれすらも、自分で自由にできるだけ一定の言葉を持っている人間の思い上がりなのかもしれない。
自由にできる言葉がないから、ほんの僅かにだけ与えられた物語を心の中で繰り返し再生する。
著者はドイツ語の書き言葉を学んだ後になって、自身の人生を遡るようにしてこの小説をものしたとされている。言葉をもたなかった当時の彼女自身の未完成な訴えがそのまま保存されたかのような離れ業をなしとげているという点でも、稀有な本だと思う。
それは書けるようになった当時の彼女もまた、苦痛の渦中にあったということでもあるかと思うが。
『原野の館』ダフネ・デュ・モーリア
10代のわたしに読ませたらこんな本が読みたかった!と狂喜乱舞すると思う。
ヒロインのメアリーは19世紀イギリス農村育ちという境遇でありながら、キリスト教的倫理や古臭いジェンダー観に囚われない自立心を備えている。苦難に遭遇するたび繰り返し「自分が男だったら」と臍を噛み、恋慕の情に目が眩みそうになってさえ、自分の心と行先の人生を天秤にかけようと心を砕くような子だ。 親を亡くしたところから始まるのも少女小説のパターンを踏襲している。
一寸先には死の危険さえ孕み、刻々と変化する苛烈な原野の風景と、激情と計算の合間を行き来するメアリーの感情が、ストーリーが進むごとに重ね合わされる。
荒涼とした冷たい風の吹きすさぶムーアの原風景に佇む一軒の昏い宿屋…という主軸のミステリーには、個人的には正直あまり心をくすぐられなかったのだけれど、意外にもベタなラブロマンス要素(正反対の性格に惹かれあう男女、謎めいた優しい男性との三角関係が実は……)を盛り込んできたり、サービス精神が豊富なエンタメ作品だった。少女漫画っぽい…ともいえるが、むしろ乙女ゲームっぽいと思った。ヒロインの選択肢によっていくらでもバッドエンドへの分岐がありそうなところが。
『現代ゴシック小説の書き方』ブライアン・エヴンソン
著者の本は読んだことがなかったのだが、読んでいて肌の下がぞわぞわするような不条理な小説を書く作家のようだ。この著者がいかなることを考えて小説を書いているかということについて、テクニカルな面でわりと手の内を明かしてくれる。次の章ではそのテクニックを実践した短編まで載っているという親切仕様。しかも著者のどんな企みに対しどんなテクニックが使われてるか、あえて分かりやすく書いてくれてるのに、ちゃんと短編としても面白いというのがすごい。
日本文学(『鬼滅の刃』や柴崎友香、内田百閒など)や実際に訪れた日本をどう見ているか、エッセイを通して読めるのもおもしろい。
『紫の野菜』という短編は、まさにこのアメリカ人のゴシック小説家が日本を訪れた体験を書いているのだが、日本生まれ日本育ちのわたしの目には不気味というよりコミカルにも見える。なぜなら語り手の感じている不安は、単に初めて訪れる異国の地の異文化に明るくないせいだということが、日本に住み馴染んだわたしにとっては明らかにわかるからだ。
居酒屋で酔い潰れるサラリーマンも、材料がなにかよくわからないお通しも、接待する側がサッと注文を済ませてしまうマナーも、全てがそういうものであり、我々にとっては日常と分かっているからこそ、それらの全てに不安を感じる外国人訪問客を微笑ましく感じるという「ずれ」が見える。
小説から立ち上る「不気味さ」というのが実は文章術により巧みに演出されたものであると理解させられる仕組みになっているのだ。
『翻訳をジェンダーする』古川弘子
翻訳小説の訳文で女性の登場人物が現実離れした女ことば使いがち問題。SNS等でもカジュアルな指摘を目にするけど、そもそもどうしてそうなってしまうのか? と踏み込んだところが読めて面白かった。お客さん気分の読者でいるとなかなか気づけないが、翻訳者の皆さんは訳文について我々よりもずっと長い時間深く考えて向き合っているのであり、それでも女ことばを選ぶのはなぜなのかと。
数か月前に読んだ中村桃子『ことばが変われば社会が変わる』にもあったけど、つまるところ日本語(あるいは日本社会)が「社会的な慣例にならった日本語であること」を正しい日本語、とみなし高く評価する傾向がつよい、ということなんだろう。
言語のルールや規範は説明なんてされないまま子どもたちに体得されていくのがふつうだけれど、説明もされずに無意識に使われる言葉づかいの方がより強力に「これは自然なことだ」と学習させてしまう……という話もドキッとさせられる。子どもに対する古めかしいイデオロギーの押しつけについては、周りの大人が気付きしだい注釈をいれていくのが、やっぱり大事ってことなのか……。
『意識のリボン』綿矢りさ
綿矢りさ作品、年代を追って読むとかすると作風が如実に出てもっと見える景色が広がりそう、とこの本を読んでいて思った。できてないけど。若くて自意識がバキバキだった時から脱しつつあり、最近の『パッキパキ北京』ほど「見られる自分」を振り切れるまでの中間地点、という感じがする。
何年か前に綿矢さんがインタビューかテレビ番組かで、「幸せなままで面白い小説を書きたい」と言っていた気がするのだけど、ここに入っている短編を書いてたあたりだったのかなあ。『履歴の無い妹』や『意識のリボン』が、今のわたしからすると好き…というかすとんと腑に落ちる感じがある。煩わしい自意識や生きることへの厭わしささえだんだんどうでもよくなってきて、ただ自分の選んだ日常を積み重ねていくぜ、やっていきましょう、と励まされるような。
『結婚式のメンバー』カーソン・マッカラーズ
読み終わってもしばらくは意味がわからなかったのだが、冷静に考えるとわたしにもあったわ、フランキーが兄の新婚旅行について行けるって信じてたのに行けないと気づいて絶望したときのようらな経験が……
だけどフランキーみたいに劇的に「その日」突きつけられて茫然としたわけでもなくて、じわじわ悟っていっていつのまにかそれを受け入れるのが賢いって思い込んでる自分にすっかり変わっちゃってたんだよね。
ベレニスやジョン・ヘンリーだってわたしの周りにはいなかったからね。
むしろ今のわたしの方があの暑い夏の夢のなかにもっといれば良かったって縋りつきなおそうとしてて、フランキーみたいに全力でイニシエーションを体験できて、そのそばにベレニスやジョン・ヘンリーみたいな存在がいたのがうらやましい。だからこの小説のことを分からないって思ってるのかもしれない。
夏の話だから夏の初めに読み始めたのに、わからないと思いながら読んでいるうちに長い夏が終わってしまった。
『アーモンド』ソン・ウォンピョン
さらっと読めるし、展開もかなりシンプルなのだが、不思議とじわじわと効いてくる小説である。
悲惨なニュース番組を見て、それでも振り返りざまになぜ笑いかけていられるのか。
遠くにいすぎる人の不幸は自分には関係がなくなる。
人の感情を理解できない「僕」だからこそ、自分の生活や身の回りの社会を保つためと我々が割り切っている「共感」という機能の、奇妙な残酷さが浮き彫りになる。
『東大ファッション論集中講義』平芳裕子
ファッション論って興味ないわけではないのに研究された書籍を読もうとするとなんか難しそう、どこから手をつけたらいいのかわからない。
この本はさすがちくまプリマー新書で、その多義的なファッション論の入り口を広く浅くさらってくれている。今後ファッション研究をしようとする学生さんにとっては入り口になるのだろうし、そうではない一般読者にとっても「流行を追って他の人と同じ服を着るべきか」「コピー商品を買ってもいいのか」「ファストファッションを買うのってどうなのか」というような、この均一的な日本社会においても人それぞれ価値観がかなり違いそうで、自分の価値観は固めておきたいけど、どう考えればいいか分からない、という問題を考える助けになると思う(もちろん答えを与えてくれるわけではない)。
ファッションって社会の構造と個人の生活とあまりにも深く、濃く分かちがたく結びついているからこそ一義的に語ることが難しく、「身近なのになんかよくわからない」「方向性がありすぎてどう考えていいかわからない」になってしまうということがこの本を読んでよく分かった……。