『教授の家』ウィラ・キャザー/加藤洋子 訳

物質主義への批判の話かと思っていたら、最終章で孤独と個人主義、家族という結びつきへの絶望感というテーマで終わったのでちょっとびっくりした。

教授の家

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だけど考えてみれば根は同じなのかも…。

主人公である教授は大人になった娘とその夫、そして姑になった妻という家族のメンバーとは、物質的なものを通してしか繋がれていない。歴史学の教授であるゴドウィンは、自分自身の精神世界においてもっとも大切にしているものを、新しい家族たちにわかってもらえないと感じている。教授がかつての教え子、亡くなったトム・アウトランドに共鳴したのは、彼が精神世界を重視する人間だったからだ。歴史的な意義のあるメサの遺物を換金したことに怒った人間だから。けれどこの社会で人生を長く生きるほどに、精神的な活動さえも換金しないで生き延びることは難しくなる。その矛盾への葛藤は、現代を生きるわたしにさえ身に覚えのあるものだ。

 

小説を通して教授の拝金主義にたいする侮蔑心を書きつつ、金を得るための「仕事」そのものに対する敬意を忘れてはならない、という倫理観もえる。教授はその間で揺れている。楽に金を得る方法はないこと、豊かで実りある穏やかな人生は金がなければ立ち行かないこと、それらもまた否定してはいない。こういう旧来的価値観と新しい価値観の間で揺れている登場人物というのも、キャザーの作品っぽいモチーフのような気がする。

 

ところで、訳者あとがきや解説に詳細な説明があるが、『教授の家』の文章はかなりシンプルだ。わたしにとっては、特に教授の視点で書かれている第一部・第三部では、かえって全く書かれていないがゆえに妻や娘たちの立場や考えがどうであるのかが気にかかってくる。とりわけ、二人の娘については子ども時代のアウトランドとの関係においてはほとんど区別がない。少なくとも、教授の目にはそう見えていたようだ。にも関わらず、アウトランドが婚約していたのはロザモンドだ。その経緯ははっきりしない。単に年齢的にロザモンドがふさわしかったからなのか。結果的にロザモンドはアウトランドの「遺産」を手にして経済的に恵まれることを考えると因果なことだ…と思ってしまう。

だけど、その後の結婚相手や家庭生活、教授との関係から伺えるそれぞれの性格において、二人の娘は明確に対照関係にある。妹のキャスリーンは、絵画の才能があるが、自分に自信がなく、母親からのプレッシャーを強く感じていて、父親の庇護を必要としている。一方、姉のロザモンドは妹より母親と距離が近く、自分の損得に敏感で、扱いづらい人のように見える。だがそれらも、あくまで父親の目線から見ただけのことだ。教授はロザモンドの夫にはうんざりしていることを隠さないが、ロザモンド自身の人柄についてはほとんど無関心なようなのだ。

第二部のアウトランドの語りのなかで、「子供代わりに丹精込めて草木を育てる人もいて、ぼくにはなんだか物悲しく思えた。」(p.180)という記載が引っかかった。(あまり本筋とは関係ない部分の描写なのだが。)というのも、教授は庭の手入れを丹精込めてやる人である…ということが第一章で述べられているからだ。そもそも教授の娘たちへの向き合い方とはどんなものだったのだろう。

ほとんどが教授目線のシンプルな語りにもかかわらず、不思議と教授への感情移入が阻害されているような印象を与えるのはこういったところもあると思う。教授の思考は自分を正当化しようとする(それは自我のある一人の人間として自然なことだ)。ほとんどの場面で、読んでいるわたしは教授に感情移入している。だけど時々こんなふうに、周囲の人間から見た教授の姿は果たしてどうだったのか?と問いながら読むように促されているようなのだ。

最終章まで読むとその教授が、狭い「家」の内部にとらわれて視野狭窄に陥っていたのだと気付かされる。人生によろこびがあると思い出させるのは狭い「家」の外にいる人物だ。アウトランドがかつてそうであったように、いまはオーガスタが教授に外の世界の存在を思い出させたのだ。