耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

2025年11月に読んだ本とか

今月はいよいよ積読棚が入らなくなり、棚を耕していたら*1、8年ぐらい積んでいた本を発見。読み始めたら止まらなくてそのまま一気読みしました。積んでいたかいがあったな~。さてどの本でしょうか。

 

小説

『ピュウ』キャサリン・レイシー(井上里 訳)

『オメラスから歩き去る人々』がエピグラフに引用されているが、くじ、緋文字、八月の光…のようなアメリカ文学も思い浮かぶ。ピュウという「だれでもない」人物の登場により、性別、肌の色、どこから来た人間で誰の家族なのか、という社会的な属性がコミュニティの中で奇妙なまでに重視されている異様さが浮き上がる。コミュニティは常にそれを維持するために犠牲を必要とし、富を、名誉を、権力を集中させようと躍起になる構造をはらんでいる。自分のアイデンティティとはなんなのか?身体や欲求のことなのか、あるいはこの容れ物のなかにある思考なのか?という絶え間ない問いの果てに、集団が本質的に持っている異常性に行き着くのが恐ろしくも見事だった。身体などなければ我々は、どんな他者をも排除せずに、思考し続ける完璧な個でいられるのに。

 

『ダッハウの仕立て師』メアリー・チェンバレン(川副智子 訳)

第三帝国は階級を作り出すことで人々の「向上心」を煽り差別と虐殺から目を背けさせた、英国人の心にももちろん存在する階級意識を利用することによっていつでもナチスは再生しうる。

ダッハウを舞台にした心温まるストーリーだったら嫌だなあとうっかり思って積んでて悪かった……最後まで読むと著者は戦争の暴力性や残酷さだけでなく、1940年代当時の英国の階級差別意識と女性差別をも二重に告発したかったのだと思う。最後まで救いはない物語だが、それでもノーを言い続けたエイダ。確かにエイダはすぐ男に騙されて愚かなのだが、当時まだ10代で夢と野心に燃える普通の若い女の子がちょっと甘い男に騙されたからといって誰が責められようか。というより、こういう話を読んで女の子のほうを責めたくなってしまうこと自体が、我々にプリインストールされたミソジニーなんですよね。どう考えても悪いのは、相手が力で自分に逆らえないとわかっていて騙して連れ去って虐待する方なのに。公正であるべき司法の場でさえこんな女性差別がまかり通っていたのかと思うとぞっとする。検察側の弁護士が女性を蔑視するに際して、当たり前のようにケア労働を軽視する発言が出てくるのにも涙が出そうに悔しくなる…。

ダッハウで奴隷のように働かされるシーンの過酷さは無論のこと、終戦で捕虜の身が解放されたとて対独協力者なのではないかと疑われともすれば殺されそうになる理不尽。というのは、80年経った今だからこそ冷静に思えることで、戦後の戦勝国の空気はおそらくナチスの収容所の実態が明らかになった衝撃、かれらのような非人道的きわまりない集団に同胞を殺された恨み、そして自分自身が戦争で手を下したことで傷ついた精神、生き延びることそのものへの疲れがないまぜとなり、鬱屈とした社会不安として覆っていたのだろう。そのために若い女性がスケープゴートにされたかのような延々と続く裁判の描写は、マリーアントワネットの伝記さえ思い出させる、そう、この強い男たちの社会はもう何百年もこんなことを続けてきたんだよ。

 

『女が嘘をつくとき』リュドミラ・ウリツカヤ(沼野恭子 訳)

散りばめられたユーモアが人生の深刻な場面に隣接していて、もうたまらなく好き…。やりきれない感情をわき起こさせる出来事を、なぜか楽に受け止めさせてくれるかのようで。

6編の連作短編を数珠繋ぎにした「嘘をつく女」というモチーフ。全ての短編に脇役もしくは主要な登場人物として登場するジェーニャが、最後の第六編では……。

どんな人も喜劇の脇役にもなれば悲劇の主人公にもなりうるのだと、人生の先行きをみつめて震える。同時に、「それでも大丈夫、大丈夫になる」と深刻にならない距離感で、背中に置かれた大きなあたたかい手を感じるのだ。

 

『ソーネチカ』リュドミラ・ウリツカヤ(沼野恭子 訳)

『女が嘘をつくとき』があまりにも好きだったので続けてウリツカヤを読んだ。

『ソーネチカ』でも、難民でも孤児だった過去のあるヤーシャが本当のことを言って自分を見つめるのが嫌になり、嘘をつくようになったという下りがある。ある意味では、文学も一種の嘘ではある。ソーネチカは人生と家族がばらばらになるごとに本棚の前に行って物語の中に沈み込む。ソーネチカの人生の芯を「嘘」が作り支えているのだと思う。

自分が娘のように面倒を見た女を芸術家の夫が芸術的な視点で見つめながら異性としても交わってしまう、というストーリーはハン・ガンの『菜食主義者』を思い出した。『菜食主義者』では女が食べることを拒否していたのにたいして『ソーネチカ』ではヤーシャが胃が痛くなるまで食べる(孤児院から一人逃亡してきた経験のため)、というのは対照的で、主人公の女が彼女らの食事にたいしてケアを施すというのは共通している。「レアとラケル」が台詞に出てきて、思わず調べたけど、ソーネチカとヤーシャは実際には血は繋がっていないが姉妹に見立てられているんですね。

『菜食主義者』にある苛烈な苦悩にたいしてこの作品に流れる空気は穏やかなのだけれど、そのぶん『ソーネチカ』のほうが未来のわたし自身の姿を投影したくなる。(『女が嘘をつくとき』のジェーニャも、未来の自分のような気持ちになってどきどきしたが。)家族と体を寄せ合って「なんて幸せなんだろう」と声に出してつぶやいている瞬間のほうがむしろ非日常で、家庭がばらばらになり、あっというまに孤独になり、ひとりで本を読んで暮らしているほうが本当の姿みたいに思える、自分の未来の姿。

 

『陽気なお葬式』リュドミラ・ウリツカヤ(奈倉有里 訳)

深刻なテーマであっても不思議な明るさがあり(そう、陽気な。)死は深刻であるからこそ陽気であるべしと、死者自身が微笑みかけてくる。文章にちりばめられるさりげないユーモア、ちょっとしたその人ならではのこだわりみたいな、小さいけれどもオリジナリティにあふれた仕草などの描写によって示されるところが、好きだなあと思う。

三作続けて読んでなんとなくウリツカヤってこういう感じ、というのが見えてきた気になるものの、繰り返し出てくるユダヤ教とキリスト教の対比みたいなところが今ひとつピンとはきていない。ニーナはなぜアーリクが死ぬ前に改宗させることにそこまでこだわったんだろう。同じ神を信じていなければ死が本当に永遠の別れになってしまう、死後の再会を信じることができないから、ということなんだろうか。宗教が形式的なものだとしか捉えられないわたしには、真の理解に至ることはできないのかもしれないが。

 

『ヴァレンタインズ』オラフ・オラフソン(岩本正恵 訳)

人生の折り返し地点をすぎても、もがくことを止められないわたしたち。簡潔で多くを語らない、雪の日を思わせるような静かな文章なのに気づけば彼らの懊悩はすぐ隣にあるように感じられる。

12ヶ月をモチーフにした12の短編集。人生の折り返し地点をすぎてもなお、甘くもない日々を思う味わい深い作品だった。訳者で選んだ本。岩本正恵さん翻訳の本は、じんわりと沁みるのに一筋縄ではいかない作品が多い。

 

小説以外

『学校では教えてくれないシェイクスピア』北村紗衣

面白すぎて一気読みしてしまった。物語に普遍性があるゆえに現代の感覚で消費してしまっているシェイクスピアだけれど、そもそも成立当初の上演事情による制約によりストーリーや構成がなされた可能性がある(芸術的な完成度のためだけでなく)という話が分かりやすかった。舞台に幕がないため人物が最後にバタバタと死にがち(ハムレットなど)とか、そもそも複雑な女性の役を作っても演じられる人がいないなど。シェイクスピアとその周りの人間も観客もイタリアの政治情勢なんか興味なかったからモンタギューとキャピュレットが争ってる理由が不明でバカみたいに見えるっていう指摘が辛辣だけど一番笑った。そもそもロミオとジュリエットは政治劇として見るべきではないものなのか。

加藤陽子氏の『それでも、日本人は戦争を選んだ』みたいに中学生向けの講義を書籍にしたものらしいのだが、これを受講したうえで、自分でシェイクスピアを演出したり批評文を書くみたいな課題もこなしている学生さんたちのレベルが高くておののく。

 

『傷を愛せるか』宮地尚子

精神科医として臨床カウンセリングを務めながら、トラウマやDV被害者支援などに携わっている著者によるエッセイ集。精神的な負荷がきわめて高い職業なのではないかと想像するのだが、そのような仕事と自分自身の生活を切り分ける葛藤や、いっぽうで読書や映画や旅で得た思索が自身の経験と結びついていく過程が誠実に述べられている。

個人的には、どんなふうに捉えればいいのかが難しい事柄にぶち当たったときに、こんなふうに考えればいいのだろうか、というヒントのような、直接的なTIPSではないのだけど、道の先に小さな灯りが揺れているような心強さのある本だった。

 

『ファンたちの市民社会』渡部宏樹

別記事で感想というか、自分とは何かみたいなことをつらつら書いた。自分は現代社会におけるオタクかもしれないと思ったことのある方は読んでみてほしい本。

sanasanagi.hatenablog.jp

 

舞台(映像)

ミュージカルMA(韓国ミュージカルOnScreen)

曲が全部好きなMAを歌うまで聴けて幸せでした。日本公演で劇場に通った思い出がフラッシュバックしている感想はこちら↓

sanasanagi.hatenablog.jp

 

インディセント(松竹ブロードウェイシネマ)

こちらは松竹系で、映画館でミュージカルが観られる企画。なんばパークスシネマが駅からあんなに遠いということを忘れており、最初の10分くらいを見逃してしまったのですが(松竹のインタビュー記事で言及されていた、エリザベートのオープニングを彷彿とさせるらしい冒頭を見逃してショック……)

20世紀のイディッシュ文学をモチーフにした作品ということで必ずしも愉快なだけの物語ではないというのは察せられるかもしれませんが、随所はユーモアに満ちており、何よりも演劇によって愛を表現するということに、これほどまでも豊かな方法があるのだと心が震えました。

sanasanagi.hatenablog.jp

 

 

*1:並び替えてなんとか詰め込もうとしたの意