耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

リュドミラ・ウリツカヤ『クコツキイの症例』~物質としての生命、はかりしれない精神

鉄のカーテンで閉ざされていた時代のソ連で、産科医の権威であったクコツキイとその一家。家族の絆と、その繋がりが切れた後の物語。血のつながらない親子、医療による中絶の是非、科学進歩における生命倫理というテーマ。生死のままならなさが、さまざまなユニークなエピソードで重奏されていく。

宗教的には一度発生した生命を中絶するということは到底許容できるものではないが、いっぽうで、経済格差が存在し弱い立場の女性が身体を切り売りせざるをえない社会環境下では、医療による中絶の禁止は、すなわち女性の身体を損なうことに直結する。
同じように、人間の身体も含めた動物を客体として観察や研究の対象とすることは倫理にもとるのかもしれないが、そうしなければ医療の発展により多くの人々を救うことは成しえない。

かつて生物学を専攻していたウリツカヤ自身がもしかしたら直面してきたのかもしれない、こうした現実的な倫理上の矛盾が提示される第1部にたいして、第2部は観念的というのか抽象的。読むのに苦労したのだけれど、キリスト教的な神の存在を感じながら「歩む」ということ(おそらくはそれぞれの人生の道行を)、生死の瀬戸際にいるということ、三次元、あるいは四次元を超えた座標軸のなかで死者と対話し、真の意味で肉体という境界を超えた「愛」の体現をするということ、を書くための描写だったのか、と思う。

たくさんのちいさなものの積み重なった上に生命の精神的なよろこびがある……というような抽象的なイメージが第3部でも繰り返されていて、それがわたしにとっては腑に落ちるものとして感じられた。

 

「…反対に彼女はここにちょっと長くいなければならない。下の方の層を一杯にするためにね。もしさっさと送り出したら、彼女がどんな夢を見ることになるか考えてごらん。そうなったらひどいよ。動物的な本能がどんどん増長する……」(略)
「下の方の層を一杯にするのは大仕事だってことだね」
「(略)……もし今僕たちが懸命に働けば、素晴らしい女性で、信頼できる友だちで、献身的な妻になる。だから、やってごらん」(上巻P.316)

 

それは認識にはヒエラルキーがあるという明確な感覚で、一番下層にあって一番の基盤となるのは、例えば染色体や足や翼の血管の、重さや形や色や数といった具体的なものだった。(下巻P.37)

おそらくここにあるのは、生命が連綿と遺伝子のリレーを繰り返した結果、次第に精神的な洗練がなされていくというイメージなのではないだろうか(わたしが本当にこの文章を読み取れているのはあやしいが)…

 

第2部で幻視をしていた主観だと思われるエレーナは、終盤ではほとんど人間の尊厳を失ったような身体で、空洞になった記憶に苦しみながらも生きつづけている。悔恨を抱えながらウォッカ漬けになるも最後まで理性と知性の人であるクコツキイ。宗教的な信念があるのに実践が伴わないワシリーサ。学問に打ち込みながらも倫理観に欠けるトーマ。そして愛にあふれながらも放埒に生き、不運の中で死を迎えるターニャ……。理性がありながら一時の感情で揺らぐ人間たち。いくつもの矛盾を抱えながら生きているひとびと。根底には生きること、命をつないでいくことへの肯定がある。これでもかこれでもか、というほどに、非現実的と思いたいほどにつらくて恐ろしい現実が襲ってくる。それなのに、なぜか悲観的にはならないでいられる不思議。それ以上の大きなエネルギーがつねに上回っている。