耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

ミュージカル〈マリー・アントワネット〉10月13日夜公演 感想

帝国劇場は〈1789〉ぶりである。ひんやりした気候が過ごしやすい季節になったので、秋物ブラウスとスカートを着て劇場へ出向くのも心が弾む。普段はユニクロのパンツと数年前のセールで買ったシャツで通勤しているわたしも、身に纏う洋服で気分は変わるものだと実感する。

最高のシルク、リボン、レースをふんだんに使い、仕立てる技も完璧なドレスを着て、みずからの大胆なヘアスタイルを周囲の皆が真似をする、時代の最先端をいくファッションリーダーだったマリー・アントワネットが、毎日浮かれた気持ちで衣装を選んでいたとしても、責められたことではないと思う。責任の所在を知らず、ただ自分が心地よく生きることに専心したとして、一体なにが悪いというのだろう?

笹本玲奈さんの本公演でのマリー・アントワネットを見ていて、一般的な王妃の軽薄で空虚なイメージとは異なり、わたしは愛情の深いひとりの人間の姿を感じた。子どもと夫、そして信頼できるわずかな友と身を寄せ合う。息子が市民たちに奪われた後に嘆き悲しむ場面では、こちらまで気づいたら涙が流れ、肩が震えた。

わたしの罪は無知、という台詞がある。たしかに前半では、マリーは他人の傷に対して鈍感だ。家族を愛する一方、そのことと並行に走る別の線ではフェルセンに恋をしている。因果なのは、彼女の暮らしが市民たちからパンを奪ったように、彼女の人生を豊かに彩る恋愛もまた、夫の心を傷つけているのだ。市民の有様を気づかせるには革命が、夫の心の傷に気づかせるにはルイ自身の言葉が必要だった。首飾り事件の下りでルイが彼女の恋を、理解している、と伝えたことで、マリーは初めて自分の行為が、他人を傷つけていたことを知る。

 

この作品で重要なキーパーソンとなる架空の女性マルグリット ・アルノーは、革命後に市民側の人間としてマリーたちの見張り役になるのだが、そのマルグリットを重要な局面でマリーは信頼し、愛人への手紙を委ねてしまう。

わたしはその行動に驚き、なぜ、と思う。その時点で、明らかにマリーとマルグリットは互いに心を許しあってはいなかったように見えたからだ。そこへマリーの台詞「あなたも女だから」が虚しく響く。同じ女だから、味方になってくれるとマリーはまだ信じているのか。そこには決定的な分かり合えなさがある。女としてしか女を見ない男がいるように、女だって女を女としてしか見ないことがある。

マリーとマルグリットの隠れた血の繋がり、といったメロドラマ的な裏の設定は、今回はあまり意味がないと思う。それを告げられた昆夏美さんのマルグリットはさほど動揺したように見えなかったし、告げたほうのフェルセンも、マルグリットへの思いやりというよりは、マリーが好きすぎるあまりに知った事実をただ告げたかっただけなのではという印象。マルグリットは最後に自分の行動を自分の意志で選択するようになるが、その理由は腹違いの姉妹だったからなどではなく、同情でもなく、すぐそばで見ていたマリーという人の、その毅然とした生き様への敬意だったのではないかと思う。

笹本さんのマリーは最後までマルグリットを許したわけではないように思えた。だから、マルグリットへの最後の「ありがとう」が苦しい。ただ、彼女は運命を受け入れただけ。彼女は罰せられ、そして自分の眼下にあった人びとのことを知った。その代わりに、その愛のすべてを奪われて死んだ。だからこそマルグリットはあんな表情をすることになった。自分の手で簡単に人を傷つけ、命さえ奪える世界にいるのだと気づいたから。さらにその後、彼女が自らの手でオルレアン公とエベールを断頭台送りにするという展開は蟻地獄の様相を呈している。悲劇はいつまでも終わらない。見ているわたしたちは、その判決を言い渡すロベスピエールの最期がどうなるかすら知っている。

こうなってしまえば、わたしたちは合唱に諭されるまでもなく気づいている。この舞台、最後に観客を当事者にして問いかけて終わるしかどうにも幕を下ろせない。だってこの泥沼のような民衆のデマと中傷、暴走は、現代にいたるまでに連綿と続いているのだから。

 

 

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