耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

自動朔転機とはなにか

食べることにこだわりがないので、毎晩同じものを作って食べている。とにかくご飯は炊いておき、自分の扱える範囲で目についた野菜(キャベツ、パプリカ、たまねぎ、ぶなしめじ…)と豚肉、たまごをスーパーで買う。そしてこれらをフライパンに投入し、中華顆粒といっしょに炒めればとにかく食べられる状態になる。めちゃくちゃおいしくはないが少なくともまずくはないので、腹を満たすのは充分だ。この野菜炒めと納豆ご飯とインスタント味噌汁が毎日の夕飯、同じメニュー。

たぶんこの文を読み、そんな生活はぞっとすると思う人がいるだろう。世の中には毎日ちがうものを食べたいという人がいる。せっかく一日三食食べるのだからおいしいものを食べたいという人がいる。食事は人生を楽しむための大切な要素だという人がいる。

わたしだっておいしいものが自動的に出てくる環境なら毎日グルメな日々を過ごしたい。今日は豚カツあしたはカレー、きのうはグリルチキンあさってはオムライス。おかずは毎日二品以上で彩りもバランス良く。

でもわたしは清貧を宗として暮らす独居会社員であり、時間を切り売りしてお金にかえている。毎日異なるメニューを考えて料理している暇も気力もない。料理が趣味の人ならその時間は趣味の時間になるが、わたしにとっては苦痛の時間となる。食材は余りまくり、栄養は偏り、時間はなくなり、わたしは荒廃する。

しかしこのような生活をしていると、仕事中などにふと無常の思いにとらわれ、なんでこんな無意味なことを懸命にやっているのかといった疑問が襲ってくる。わたしが一生懸命作っている紙きれを一体だれが真剣に読んでいるというのか。金銭のための仕事。仕事のための仕事。時間を潰すための仕事。

このようなときに、自分のなかにいるひねくれ鴨長明みたいなやつに一生懸命意味を説明しようとすると、仕事は一切進まなくなり一日を棒に振るだけだ。意味などないのだから初めから負け戦に決まっている。仕事にも意味はないが読書にもゲームにも意味はない。どんな生産性の高い行為だって、どうせ数百年もすれば全員死ぬという考えのもとでは意味がなくなってしまう。

それでも昨日食べた野菜炒めで身体は知らぬ間に回転している。意味や結果に価値があると思うから前が見えなくなるのだ。自動朔転機のようにただ回転することだけを目的に進んでいきさえすればいつかはなにかにぶち当たることもあるだろう。

自動朔転機とはなにか。それは今わたしが頭の中で作り出した架空の機械の名です。