耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

ミュージカル〈1789-バスティーユの恋人たち-〉感想

 堂々と言うことではないと思うのだが、薄給のため財布にそれほど余裕がない。劇場にもたくさん通いたいけれど、綺麗な洋服や靴もたまには欲しい。百貨店で化粧品を買うときの幸福感もすてがたい。
 1789-バスティーユの恋人たち-はそうしたプアな私の心の隙間を埋めてくれる、めくるめくミュージカルだった。私の顔を彩る化粧品などキャンメイクの500円くらいのやつで十分。1789年のパリ市民たちはフランス王室に課せられる重税に憤激したが、このミュージカルの世界になら私はいくらでも貢ぎたかった。

 6月4日(土)、夜公演。厳密には前楽だが、翌日は大千秋楽なので、コネも観劇友達もない私には、前楽を観劇した後の衝動に身を任せてチケットを手に入れるすべはない。よって1789はこの日が最初で最後の観劇となった。事前に購入したフランス版のCDをリピート再生していたから、音楽がいいことは分かっていたのだが、チケットをリピートしたくなるほど愛するようになるとは思わなかった。私はどちらかといえば暗くて内省的で重厚な雰囲気の作品に惹かれる傾向があるので、プロモーション動画から享楽的なムードを漠然と感じていた「1789」には、まあそこまでハマらないだろうと高をくくっていた。

 しかし蓋を開けてみれば、まず間違っていたのはその自分自身の嗜好に対する自己認識であった。
 とにかく舞台上で歌うまのイケメンたちがドヤ顔のキメキメで歌い踊りまくっているという状況にアドレナリンが大量放出。内省などもうどうでもよい。女性も男性も右も左も、上手も下手も板の上も奈落の下もイケメンだらけである。とにかくミーハーでいられることが楽しい。一観客として割り当てられた座席で微動だにせず黙りこくりながらも、内心では黄色い声を上げて、美しくてかっこいい人たちを見つめられる至福の時間。しかもそれは全てプロのエンターテイナーたちが身一つを懸けてつくりあげたスペクタクルなのだ。

 「1789」は通常の東宝ミュージカルと異なり、舞台前方のオーケストラピットがなく、ギリギリまで舞台がせりだしているので、他の作品と比べて距離が近い感じがする。オケピがないという弱みを逆手に取るばかりでなくむしろ最大限に利用してやろうとばかりに、客席を用いた臨場感のある演出が多用される。お笑い担当役のラマールご一行による最前列の客いじりもアドリブで自由自在。アクションシーンでは貧民たちが舞台からはみ出して転げだし、手塚治虫の登場人物が漫画のコマを突き破って吹っ飛ばされるというメタ表現を思い出した。こうした迫力を間近で感じるとき、光輝く舞台を見つめる私たちは単なる演劇の傍観者から、ともに革命に期待し胸を高鳴らせるパリ市民の一員となれる。華やかな人びとがより生々しさをもって間近に感じられる、舞台ならではの魅力がクセになる。

 ストーリーに目を向ければ、ある程度は気楽に観られる作品である。本国フランスでは、演劇というよりもコンサートに近い雰囲気の「スペクタキュル」という文化らしい(パンフレットより)。確かに群像劇であるものの、ストーリーは単純で、キャラクターや善悪の区別も明瞭だ。次々と場面が展開しても置いていかれることはない。
 いっぽうで歌とともに表現されるのは、主役のロナンとオランプの恋路、先行き不透明な社会で惑う若者、マリー・アントワネットのフェルゼンへの恋心と苦悩そして内面の変化。なによりも、民衆みずからが意思を持って立ち上がったという1789年の史実への矜持だ。音楽と踊りにのせたこれらの感情表現が、リアリティを持って胸に迫ってくるのは、いかにもミュージカル的である。

 私が気に入っているシーンは、主人公のロナンとオランプのふたりが、流石フランス人とも言うべき急速なスピードで恋に落ちたあとの、ロナンの独唱だ。それまで世を憎み世を疑い、険しい表情だったロナンが、明るく幸福そうな微笑みを浮かべて歌っているのを見て、傍観者の私までつられて微笑みが漏れてしまった。全体的にロナンとオランプのラブシーンは気恥ずかしい展開が多く、部屋で布団をかぶりながら少女漫画を楽しんでいるときのような気分にさせられるのだが、力強さと溌溂とした高揚が同居するロナンの歌声によって、よこしまな心は浄化され、陶然と愛というものの美しさに身をまかせることができるようになる。その感覚はたまらなかった。

 ミーハー心から言えば、ロベスピエール、ダントン、デムーランそしてロナンたち美青年が一緒になってじゃれあうかのように台詞や歌の応酬をするシーンはそのまま一幅の絵として保存したいほどだった。舞台の上では立ち姿のすらりと美しいロベスピエールに、初めのうち、革命など実行に移せるのか? と疑うほどに柔らかいムードの優男っぽさを感じていたのだが、シーンを重ねるごとに、内に青い炎を燃やしているかのような、冷徹で硬いイメージに変化していたように思う。まるで友人や異性にも、本心までは許していないかのような……。そして第二幕の幕開けでは、球戯場の誓いを一人高らかに歌い上げるのだ。現代においてもなおフランス人にはこの精神が貫かれているし、その史実への誇りは熱い血潮となって流れているのだろう。自然とそんな思いが湧き、全編を通して最も胸が熱くなったシーンだった。
 ところがパンフレットには、史実の彼らについても補足されている。革命後、恐怖政治を断行するロベスピエールは、諌めようとしたダントンとデムーランを断頭台へ送ったのだという。若き日の理想を共有したはずの友人までも死なせてしまう彼が、一人目指していたものとはいったいなんだったのか。実はそんなものは、この世界のどこにもなかったのでは? ……作中のおぼっちゃま三人衆があまりにも美しいために、そんなことまで考えてしまう。
 本作の時間軸はバスティーユ襲撃へいざ、というところで幕切れとなり、おそらく革命の一番醜かった部分はまったく描かれていない。義憤が狂気に変化し、民衆の狂気が暴走した時期のことは。だからこそ、エンターテイメントとして成立しているのかもしれないけれど。

 最後に述べておきたいのはアルトワ伯とペイロール伯爵、ふたりの悪役について。
 ペイロール伯爵は正統派の悪役として振る舞い、台詞や登場シーンは少ないながらも、出てくる度に思わず目をやってしまうほどの存在感に満ち溢れている。本当はすごく良い声なのに、あえて時折悪役臭さの漂う濁りを声色に混ぜているのは惜しくもあり美味しくもある。とにかく悪役ならではの色気にあてられる。ところが、カーテンコールではふと役柄が抜けたかのように、ルイ16世役の増澤さんの陰からひょこひょこと顔をのぞかせてるなどお茶目な一面を見せる。客席は心を掴まれずにはいられないだろう。
 ペイロール伯爵も、王弟アルトワ伯も、物語中では貴族の立場にあって、自分たちのエゴのために国王を唆し革命を弾圧する役まわりには変わりない。しかしそれだけでは、ふたつの役柄の存在意義は同一化してしまう。そういうわけで…なのかどうかは定かではないが、アルトワ伯にはこれでもかとばかりにキャラが詰め込まれ、肉付けがなされている。たとえばどこか女性的な声音と所作、目の周りを赤く隈取るようなメイクは目もとのインパクトを強め、彼の持つ欲望を色濃く強調する。催眠術をかけて女に媚薬を盛ろうとするなど、やろうとしていることは最低な下衆エロおっさんなのだが、その中性的なキャラクター付けのおかげで中和されているようだ。
 革命が起こるなり一人でとっとと亡命したアルトワ伯は、きっとその後もしぶとく生き残ったことだろう。結局は不幸な末路を辿るのであろう彼だけれど、その生き様はどこか滑稽みを残す。本作では部下のラマール一行のおかげも大きかろうが、こうした善悪の分担がわかりやすい作劇では、悪役はバイタリティに溢れていてくれてこそ、安心して見ていることができるのだと思った。

 前楽のカーテンコール挨拶で、オランプ役の夢咲ねねさんが開口一番、「幸せでした」と仰っていたけれど、その言葉を聞くまでもなく、演者たちの作品への愛が伝わってくる2時間55分だった。フレッシュなパワーと気迫に溢れた、華々しくてエネルギッシュな舞台。ストーリーの幕切れこそ悲劇ではあるけれど、決して重々しくならずに明日を生きる活力を与えてくれる作品。かなり人気のある公演だったらしいので、再演とCD化を期待しつつ、素晴らしい時間を与えてくれたことへの感謝の念をこめて、スタンディングオベーションを送った。