耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

2023年1~2月に読んだ本とか

読んだ本

シャーリイ・ジャクスン『くじ』

シャーリイ・ジャクスンは心の奥にひそむ孤独感や邪悪さを淡々と(まるでよろこばしいことでもあるかのように)書く筆致が好きで少しずつ読んでいる。この短編集はショート・ショートといっていいくらいの短さのものが数多くまとめられていて、いまいちわからないものもあったけれど日常にひそむあらゆる小さな闇の展覧会というかんじだった。

そしてやはり表題作にして代表作の『くじ』の完成度は突出している。群衆ならではの狂気と暴走みたいなものを書いているところが『ずっとお城で暮らしてる』も思い出したし、なによりこれ、実は1948年(第二次世界大戦終戦直後)に初出なんだな…ということを思うと著者の人間性の闇を切り取る目の鋭さは時代の要請でもあったのかもしれない、とも。

個人的に好きだったのは『おふくろの味』という短編。他者に私的な空間や時間を浸食されることへのほとんど恐怖にも近いひたひたとした違和感を描きだすのがうまい、うますぎる…。そしてそんな著者だからこそ、彼女が書いた育児エッセイ『野蛮人との生活』がめちゃくちゃ読みたいんだよな~~!!(本作に所収の『チャールズ』もそのあたりの実体験を基に書いていそうな雰囲気があるが。)ハヤカワさま、復刊いつまでもお待ちしておりますので何卒よろしくお願いします。

 

綿矢りさ『オーラの発表会』

めちゃくちゃおもしろかった〜。「いっぷう変わったところのあるヒロインが、その性格の変さにより壁にぶつかりながらも成長する青春ロマコメ」みたいなことなのだが、こういうどっかで聞いた話だな〜をここまで独自のおもしろさで彩るのがさすが綿矢りさ

文学の主人公が変人で本質を鋭く突くようなことを言う、という枠組みはありがちなのに、同時に「ひねくれてない」「だれからも好かれる」キャラであることを両立してるのがかなり面白かった(だからといって別に朝ドラヒロインみたいな訳でもなく…)。とくに前半、心の中で友だちにあだ名をつけて呼んでいるのだが、その命名センスもなんというか絶妙にストレートに人の言われたくない核心を突きつつ、それでいて陰湿な厭らしさのないところが好き。そして途中で「そういうのは失礼だから、やめようと思う」とか言ってあっさりあだ名で呼ぶのをやめたりするのも好き。

先にシャーリイ・ジャクスンが好きと書いておいてなんだけど、真逆のベクトルで好きといえる小説だった。世間にすれて心が疲れたけど今更清涼すぎるものは読めないよ…みたいなタイミングでも読める、重くもないし、わりとどんな状況の人にでもおすすめしやすい本だなと思う。

 

苫野一徳『はじめての哲学的思考』

人を言い負かすことが正義みたいな態度がまかりとおっている風潮には違和感があるけれど、だからといって言葉で人と戦いたいわけじゃない、という気持ちをかかえている今日このごろ、読めてよかったと思う。相手を黙らせるためじゃなくて相手といっしょに「共通の了解」をつくりあげるために、人と人は対話をするのだ、というところを出発点にして、そのための考え方の枠組みや、罠におちいらないためのテクニックを紹介している。

ずいぶん前のkindleセールで買った気がするけど、広く読まれるといいなと本当に思う。自分の子どもにも(しかるべき年齢になったら)読んでほしい〜。というかちくまプリマーの『はじめての~』シリーズは家庭に全巻揃えたいくらいだ…。

 

観劇系

劇団四季ノートルダムの鐘』@京都劇場

前回に観たのが2019年だったか。いや~印象違うな。何よりも以前は最後まで多少なりとも感じていたフロローへの愛おしさというか哀れみみたいな感情が、全くなくなっていた。キャストや演出の違いのためなのか自分自身の人生経験による変化なのか(観劇においては常にそうであるように、たぶん両方)。

オープニングアクトの"Olim"で語られる過去、フロローがカジモドを引き取ったいきさつ…のところが一番のフロローへの親しみのピークで、彼がカジモドに「お前はみにくい、お前はきもちわるい、」と言い聞かせるところから一直線にフロローに対する好感度が転がり落ちました。これはわたしの場合は自分自身が子どもを育てるということをリアルに考えるようになったからというのはやっぱりあると思う。何も知らない子どもは乾ききった水のようになんだって吸収してしまうからこそ、自分自身にたいする劣等感を植えつけ刷りこんでしまうことの邪悪さを心底感じるようになった。

もちろんフロローは子どもを育てることを自分で選んだわけでもないし、それは彼自身の中にある倫理観から成してきたこと。描写されていない子育ての苦労を彼ら義親子はいくらでも乗り越えてきたであろう、だからこそカジモドとフロローの間にはかたい結びつきがあるのだ、ということも同時に感じた。でも、でも、だからこそなんでそんなことを言うのか?なぜカジモドを閉じこめておくのか、なぜカジモドを支配しようとするのかというのが、本当に理解できなくなってしまった。

あとは演出の変化なのかな?細かい点を挙げられるほど前回をしっかり見ていたわけではないのだけど、カジモドとガーゴイルたちとの信頼関係みたいなものがあまり感じられなかった(なので、Made Of Stoneでカジモドが感じているはずの孤独感、絶望感も相対的にあまり迫ってこなかった)気がするところは残念だった。あと各プリンシパルキャストのソロ曲やクワイヤのみの曲はめちゃくちゃ良かったのに、複数プリンシパルキャストが絡むときのお芝居が軒並み物足りず……。四季なので一定以上のクオリティはもちろんあるし、観る側のコンディションの問題もあったのでしょうが、全体的に期待しすぎたかな?という印象でした。

 

東宝ミュージカル『エリザベートライブ配信(1/31大千秋楽公演)

エリザベート、梅芸の神席チケットが消えてからだいぶテンションが下がり、もう見なくてもいいかな…わたしは2016年の思い出だけを胸に生きていこう…と思っていたけれどやはり花總シシィの見納め、見てよかった!!

老いること=死に近づくこと、という視点でこの作品を見たとき、年齢を重ねたことでいくらレジェンド的な存在であろうと永遠にエリザベートを演りつづけることはできない、という我々が直面している現実のことも同時に考えずにいられなくて。その花總さんが、生きるゆえの苦悩や空虚感をどのように表現しているか、という現実と物語を(非常にひとりよがりな観客の目は)勝手に二重写しにして見てしまったのでした。でも一方で最後には、エリザベートは自分の生を受け入れることができたのではないか、だからこそトートは死へ導いたのではないか…とも感じられて。老いるというテーマについていつも以上に考えた『エリザベート』だったな、という気がする。

 

そのほか、最近のようす

年始早々とあるゲームにハマり、1月はまるまるひと月かけてずっとそのゲームで遊んでいました。そしてもうすぐクリアするという頃に登場した某キャラクターのことがとても好きになってしまい、2月はそのキャラの二次創作やイラストをpixivを飛びまわっているうちに終わった。

特定のキャラクターにこういうハマり方をしたのが久しぶり、というか大学生以来という感覚で、結構たのしい。ゲームってストーリーや人々の心情が言葉で物語られるというよりは、想像で補完する範囲が他のメディアより広いと思っていて。そもそも主人公だって、自己投影や没入しやすい効果をねらってほとんど性格が説明されないし、しゃべらない。説明されていない時間にそのキャラが何をしていたかとか、迫真の演技による表現や情景描写があるわけでもない。キャラクターが何を考えていて他のキャラクターとはどういう関係性をもっているのか、みたいなことは自由に考えてもいい。もともと存在していないのだから妄想がほとんど真実みたいなもので。

わたし自身は小説を書くとかの遊びはもうずいぶん前にやめてしまっているのだけど、それでもいろいろと想像ながらゲームをする習慣がついて楽しくなってしまった。まだまだNintendo Switchを起動する毎日です。