耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

シャーリィ・ジャクスン『日時計』- 不安定な人びと、黒いユーモア

期待にたがわぬおもしろさ………。これまで読んできたジャクスン長編(『鳥の巣』、『丘の屋敷』、『ずっとお城で暮らしてる』)はどちらかといえば少人数の閉鎖空間という感じだったが、これは珍しく人数の多い群像劇。だけどもしかして『ずっとお城で暮らしてる』と同じ村の話なのでは?と感じてしまうくらい雰囲気に原型っぽさがある。

 

 

短い会話だけの断章がぷつぷつと続いたかと思えば突然長々と地の文だけのパートがあったりする構成で、最初は正直とっつきづらいというか入り込みにくいと感じるところもあったのだけど、一度引き込まれるとクセになる……というか、むしろこの構成が物語世界の不安定さを醸し出す演出要素になっているのでは?とさえ思える。まるで読んでいるわたし自身がお屋敷の中をかけめぐり、住人の密やかな会話や思考を盗み聞きしているかのような……。それでいて読み手すら全能ではない。聞き逃した会話があったのでは?と不安になってくるのだ。

だってある日突然ファニーおばさまが、この屋敷にいる者だけを残して世界が終わるお告げを受け取ったなんて言い出すから。最初はそんなばかげた話だれも信じてなかったのに、そのはずだったのに、お屋敷で暮らすうちに誰がお告げを本心から信じてて、誰が信じてるふりをしてるだけなのか、分からなくなってくる。だんだん世界が終わるのも本当のことのように思えてくる。

アメリカの片田舎にあるお屋敷の中の話なのに、次第にディストピアの様相すら呈してくる。なにしろ世界の終末に備え、使うんだか分からない物資やら保存食やらを大量に運び込むため、図書室の本を焼く。何度も焼く。

権威である年嵩の女達が数少ない2人の男を生殖のための道具と見なして憚らないのもそう。そして誰に命じられた訳でもなく互いが互いをスパイしあい、逃げ出そうとしているのが誰なのか見張りあっているのも……

何回も焚書がでてくるので調べてしまったのだけど、『華氏451』は1953年、『1984』は1949年発表らしい。一方、本作『日時計』は1958年発表なのでジャクスンが読んでインスパイアされて書いた可能性はある気もする。でもそうだとしても、巧みに構築された社会制度を創造するというよりはやはり、限られた人間だけで閉鎖空間に自ら引きこもることを夢想するような色が強いのがジャクスンだと思う。

ただ後の作品に比べると、成りあがりの裕福さによって出来上がった見せかけだけのはりぼての豪華さ/内面の空虚さ、というアメリカ文学の香りも強い。屋敷と心中することによって幸福が完成するのだというような、わたしの大好きなメリーバッドエンディングみは薄かったかもしれない。

 

終盤でヒロイン(?)のハロラン夫人がワイヤーで手づくりした王冠に固執してるの、すごく滑稽なんだけど狭い閉鎖空間の唯一の王がいくら滑稽でも誰もやめさせることはできないんだな……という裸の王様的な場面がある。たまたま今年読んだ『断絶』(リン・マー)という小説を思い出したのだけど、自由で平等であるはずのアメリカでもその実、既存世界の秩序が失われた後には既存世界の中で見えないことにされていた階級差が可視化されるだけだよ、っていう話を50年前からやっとったんかいなと……。どちらにしてもその訴えは弱者側からなされる。

 

あとは余談なのですが人間の赤ん坊のことを「豚みたいな顔をした生き物」呼ばわりする下り(p.234)があって笑ってしまった。『ミドルマーチ』(ジョージ・エリオット)で「小さなブッダ」とか言われてたのもわたしは忘れられないんだけども、あれはまだ愛ある比喩だったな……と思った(いずれにせよ赤ちゃんを無条件に可愛い存在とは認めていないという共通点はある)。

ファニーおばさまが村に買い物に出かけた先で、うっかり若くない独身女性を捕まえてあなたは未来の世代の母親になれないとか口走ってしまったり(そして至極まっとうに「下劣な物言い」と怒られる)、先に述べたように世界が終わるとなるや否や若い男女をあからさまに生殖のための存在と見なそうとするようなグロテスクさを描きたかったのかなあとは思う。

でも、わたしがこの小説に漂う不思議な心地よさを感じるのはなぜだろう。屋敷の家長であるハロラン氏の存在感の希薄さ(認知症を患っていると思われ、年下の妻に支配されている)、村で過去にあったという殺人事件(娘が両親と弟たちを惨殺したとされる)、それから先代のハロラン夫人だ。将来いまより少しだけ広い家に住めたらお気に入りの家具でそろえたい…と願っていたら突然夫が大金を儲けたため建てた家具付きの大豪邸にすべてが備えられてしまい、ささやかな夢をかなえることができなかった妻。どれもこれも自分の家族だったら嫌どころか隣人にすらなりたくないような家庭崩壊のモチーフだが、それらが何とも黒いユーモアと共にちりばめられているところに、どうしてもわたしは心が慰められてしまうのである。