耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

わたしを不安定にしたのは誰? ~ シャーリィ・ジャクスン『鳥の巣』

信じられないくらい面白い。久しぶりに睡眠時間を削りぎみにして夜な夜な読みふけった。

「多重人格もの」の先駆なのだというのは帯文や訳者解説でも分かっていて、その点は承知した状態で読み始めた。ただしここでフォーカスされているのは、主人公の精神的な症状がもたらす出来事ではない。それよりはむしろ、エリザベスの心の病を引き起こした(かもしれない)不条理で閉じた人間関係、自覚されないままにエリザベスの内心の奥深くに隠れていた願望。そういったものをあたかも普通のことでさえあるかのように匂わせる。暗闇や病と一定の距離を保って淡々と語るというのではなく、途中で何が狂っていて何があるべき姿なのか分からなくなってくるような、自分の定義した平凡さや正常性の焦点がだんだんとぶれてくるような感覚が、わたしは好きだ。

 

母にたいして求めても得られなかった愛、というよりもあこがれ、自覚されない嫉妬、未成熟な母親との同一化、愛されたいという希望、満たされなかった寂しさ、そのことへの恨みと憎しみ。自分が母を傷つけたのではないかという、けして認めたくない罪悪感。

それらへの抑圧が別人格〈ベッツィ〉たちをうみだしたのだと、あわれな切なさと不気味さとともに感じさせる回想の叙述の全てが物凄く面白い。母と娘が同じ名前だというのも効いていて、途中でエリザベス本人も、その母親の姉妹としてコンプレックスをいだいていたのであろう叔母も、だれがどちらのことを語っているのか、ほんとうに心を病んでいたのはどちらなのかも分からなくなってくる。

事態を複雑にしているのが叔母だ。叔母なのだけど育ての親であり、それなのに娘のように縋ってくる存在でもあり、支配者でもあり、共依存のようで突き放したり、思いやりを示したと思ったら抑圧したり、一貫性のない態度が人格を混乱させる。

ただ、これを読んでいてふと頭をよぎるのが、育児をしているときにふと目にする養育者への「呪い」みたいな言説だ。いわく、保護者の一貫性のない態度は子どもを混乱するのでやめましょう……

だが人が日常を送るなかで常に一貫性のある態度で人に接し続けるというのは不可能だ。それでも、あるべき理想とかけ離れた自分の姿への葛藤が、また更なる苛立ちや不安定さを産む。こうした不安にわたし自身覚えがあるからこそ、一概にエリザベスがかわいそうだとか、叔母が悪いとか断罪できないところがある。この叔母が「食べさせてやり、服を着せてやり、鼻を拭いてやる以外のことはなんでもしてやった」と何回もいうのも笑えたけども。恩着せがましくいうなら鼻も拭いてやりなよ……。

フランケンシュタインのたとえが中盤でも出てきたし、人格を「創造する」というキーワードは終盤でも繰り返し強調されている。廣野由美子『批評理論入門』のフェミニズム批評の章を思い出したのだけれど、作家として/私生活では母親として、人として、自分とは絶対的に別の人間を産み・養育する、ということに日々向き合っている著者だから出てくる記述でもあるのかなあ。主たる人格が抑圧された結果として発生した第3の人格(ベッツィ)・第4の人格(ベティ)が子どもっぽいのも、そのあたりの連想を喚起する。この小説は非常に奇妙な話だけれど、例えば一般的にいっても教育という行為は、ある人間が意図的に影響を与えて別の人間にたいして人格形成をするというものであるわけで、これはこれで重圧のあるものだ。ときどき恐ろしくなるほどに。

 

エリザベスを取り巻く身近な人物としてたった2人だけ登場する叔母、そして医師でさえも、成熟とは対極の、身勝手で、すぐ苛立ったり、えらそうにしたり、人の話を遮ったり、忍耐が足らず投げ出したりする欠点だらけの人物として書かれている。主治医のライト医師が初めて語り手として出てきた章など、なんやこの医者は…権威をふりかざしているくせにすぐキレて…と読みながらあきれそうになったが、たしかに主治医がまっとうで辛抱強く治療にあたる誠実な人物だったらこの話はまったくもって退屈になるだろう。滑稽なまでに欠点をあらわにしているから、患者の複数の人格にふりまわされる様が面白いのだ。

(それにしてもこれ……このライト医師の大人げなくすぐイラっとしてしまう感じ、なんだか覚えがある……と思っていたのだけど、ふと思いついた。そうだ、いうことを聞かない子どもを前にしたときにダメだと思いながらもつい頭に血が上ってイライラしてしまうあの感じだ。子どもと家で二人だけで過ごしていて、こっちも疲れていてやることが山ほどあるのに言うことがきかせられなかったりよく分からない自我を爆発させられ癇癪を起されて、相手は子どもなのにと思いながらもイライラするのを止められないあの感じだ…………ああ……)

結末は単純にエリザベスが自我を見出すとか自由になるとかいう感じではなく、空っぽの器になっただけなのだ、というのがなんともジャクスンらしいなあとわたしは思った。雰囲気だけは何故かハッピーエンドなのに絶妙に不安にさせられる。抑圧的で支配的、怒りっぽくて身勝手で傲慢な叔母と医師と3人だけのの狭い狭い閉塞的な人間関係に閉じ込められたまま、エリザベスはいささか強引な手段をとって自己を統合しはしたものの、本質的になにかを解決するなり折り合いをつけるようなことはしない。それはつまり、当初彼女の人格が分離してしまった状況と根本的には変わっていないわけで…。

けれど『ずっとお城で暮らしてる』や『丘の屋敷』でもそうだったように、客観的に見て不安になるようなその状況さえもが本人にとってはもしかすると幸せ、もしかすると彼女自身の選択として肯定しなくてはいけないのでは……という気にさせられてしまう雰囲気を醸し出しているのがなんとも癖になってしまうんですよね。

そして結局どうしてもシャーリィ・ジャクスンがどういう育児してたんだろ…というのが気になってくるのであった。彼女の育児エッセイ『野蛮人の生活』、読みたいのでハヤカワ様、復刊何卒よろしくお願いいたします。