耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

2023年3月に読んだ本とか

今月読んだ本は5冊…というか、ずっとちびちび並行して読んでいた本の読了がたまたま重なったという月。『ハムネット』が大変な良作だったのですが途中からものすごく苦しくなり(退屈だったという意味では決してなく)、並行していろんな人のエッセイや新書を少しずつ読んでいたのだがそれはそれでどれも違った方向性の読書ができてよかったな~。

 

マギー・オファーレル『ハムネット』 

この小説を読むのに先立って中公新書の『シェイクスピア』を読んでいた。確かに歴史に名を残した「劇聖」の伝記においてその妻や子は脇役。けれど物語の中で同性の人物により心を寄せやすいと感じるわたしにとっては、彼の妻が他の誰にもない独特な能力をもち、周囲の人からは少し変人のように扱われながらも自分の思う通りに振る舞う女性であり、主体的に人生を選びとるさまが生き生きと描かれる本作は非常に魅力的なものとして映った。

当時の人びとがどんな場所でどんなふうに生計をたてて何を考えながら暮らしていたのか、買ったものや、さらには病原菌までもがどのようにして人の手から手へ渡っていったか……単眼鏡で覗き込んだかのように微細に渡る描写が少しずつ角度を変えながら構成される前半は、取り立てて何が起こるわけでもないのにページをめくるのが楽しみでワクワクして読んだ。

読むのが苦しかった後半は、むしろその描写力の豊かさがゆえ。アグネスの身に起きたこととその感情、息子の遺体に触れる指先からどんな感覚が伝わってきたのかまでもがリアリティをもって想像できてしまい、何度も本を閉じては開いてゆっくりと読み進めなければならなかった。

ラストは史実とこの小説のテーマを考えるとこれ以上のものはないという終わり方。ただ、作者が演劇の持つ力を信じているととれる気もするけれど、アグネスと夫との対話で終わってほしかった気もする……。それでも、間違いなく出会えたことに感謝したいくらい大好きになった本。

 

松岡 和子『すべての季節のシェイクスピア』 (ちくま文庫)

2021年、シェイクスピア全作の翻訳を完了したことで話題となった著者のエッセイ。正直、未読の作品に関する記述は流し読みしたところもあるのだけれど、それでもいくつかはいつか観劇したいなーと思わされた。

マクベスマクベス夫人の関係にまつわる解釈であったり、「見られる」ハムレットと「見る」イアーゴーの対比であったり、読んでいてわくわくする解釈、今となっては観ることも叶わない十数年前の観劇のレポートも楽しい。

というか、90年代前半には英国俳優が来日してシェイクスピア演劇をやるみたいなことがしばしば行われていたのだな…(今でいうNTLiveみたいなのを間近に観られるということ…?)と少し遠い目をしてしまった。いや、それがあったからこそ蜷川版が今は観られるじゃないか、という話なのかもしれないのですが。

 

『それでも女をやっていく』

最初は赤の他人のわたしがここまでさらけだした内面を読んでもいいのだろうか、と思ってしまったほどに全編が個人的な文章だったけれど、読み進めていくほどに著者の向き合おうとしてきたこと、そしてこれから未来へ立ち向かっていくことへの決意表明のようなものを感じて励まされる気持ちだった。本来はすらすらと立板に水を流すように書こうと思えば語れてしまう言葉のスキルをお持ちの方だとは思うのだけれど、あえてそうしないよう自分を戒めているような、一歩一歩足元を確かめて振り返って踏み固めているような文章に、書くことへの誠実な努力を感じた。

ひらりささんとは真逆なのだけれど、例えばわたしは他人に自己開示がうまくできず、つい自己を閉じて傷つけてしまうことがコンプレックスで、でもそういう自分の一番の弱さだと思っていることとその根っこかもしれないこと(母親との関係とか)について、たとえ自分にしか聞こえない形だとしてもひとつずつ言葉にすることってなかなかできない。

この本の後日談のようなWEB記事で、恋愛の失敗はよく話されるけれど女友達とのやらかしはあんまり話さないよね…ということが言われていて本当にそうだなあと思った。いまだに誰にも言えずにいる女友達との関係でできた傷口がわたしにもある。し、それをずっと引きずって乗り越えられずにいる自分が心の中のどこかでずっとうじうじしている気がする。

恋愛とかみたいにある種の着地点が(社会的に)用意されている関係ではないところで、人に向き合っていくということの難しさと、だがそれゆえに人生は物語性を帯びるのかもしれないということを考えた。

 

多和田 葉子『溶ける街 透ける路』 (講談社文芸文庫)

主に文学や演劇の催しに招かれて各地を旅する著者のエッセイ。もとは新聞連載だったらしく一編が3ページ程で隙間時間に少しずつ読みやすく、気軽に旅をすることも叶わぬ身としては非常に癒された。観光旅行ではなく多和田氏の作品と彼女自身の言葉に対する感覚そのものが旅と旅とを繋ぐ糸として機能しているため、その中のエピソードにも多和田氏特有の関心やユーモアが広がっているようだ。世界のどこかでこんな奇妙で大胆なイベントが行われているのか…という単純な興味もあるし、淡々と物静かな印象を受ける文体の印象に反して、異文化にためらいもなく何でも飛びこんでみる著者がこれまた飄々とそれを書いているのがなんともおもしろい。

実際に現地で足を運ぶ旅とは、ガイドブックの情報を確認して帰ってくるだけではない、こんなにも個人的なものだったと思い出させられる。

 

廣野 由美子「小説読解入門-『ミドルマーチ』教養講義」 (中公新書 2641)

この本を読むために『ミドルマーチ』を読んだはずなのにずっと積んでしまっていた……のだが、読みだすと小説のおもしろさが蘇ってきて2度美味しい。前半は小説を読み慣れている人ならお馴染みのテクニックを改めて正式に言語化する、という感じだが後半は知識の補強という側面が強い。『ミドルマーチ』を読んだ時に(廣野氏の翻訳がものすごく読みやすいというのは大前提として)現代的な感覚で登場人物と自分の価値観を重ねてもほとんど違和感がなく、その理由が論理的に解説されて納得できた気がする。

たとえばエリオットの宗教観・倫理観の点で、彼女が無神論者なのは神を必要としていたがゆえに逆説的に信仰の困難さにぶつかった、と書かれていた下り。ヨーロッパ古典文学によくある、登場人物の倫理観・善悪の価値判断が理解しにくい点がミドルマーチではほぼなかったのは、こういう背景も理由だったのかもしれないと思った。ミドルマーチのドロシアは「聖テレサ」的な女性として描かれていつつも、彼女が最終的にリドゲイトに対して施したことは現代的な感覚でも非常にわかりやすい善なる行為だと感じたので(まあ、それを実際にできるかはともかく…)。

あとエリオット文学のテーマとして、「大きな野望や夢への挫折を経て個人の具体的な義務の中に生きる意味を見出す」と総括されていたのだけど、これもわたしにとってミドルマーチが現代的な感覚で読んでも理解しやすかった理由かもしれないな〜と思う。大文字の歴史を動かすような野望は潰えたとしても、むしろそこから何をするか腹を括った無数の人々の働きによって、世界は動いていくんだよという…。ある程度歳を重ねたからこそそういった実感を楽しめた面もあるかもしれないですけど。