耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

2024年8月に読んだ本とか

最近のようす

夏休みは沖縄に行って海を堪能していました〜。わたしはアウトドア苦手そうないでたちをしており、夫にすら意外と言われるけど海は好きです。山と違って何も達成しなくても楽しめる自然。仕事量も落ち着いていたしゆったりした気持ちで過ごせた気がするよ。

 

 

読んだ本

『俺の歯の話』バレリア・ルイセリ

実験的小説であると聞いて身構えてずっと積んでいたんですが、そういう身構えを振りほどいても十分に楽しめる小説だった。なんなら読むのたのしすぎてほぼ一気読みした。はじめは野心を抱えたメキシコの工場労働者の「歯」の話なんだね、と思って読みはじめ、競売人となった彼の口から語られる小話にニヤニヤしたり感心したり首を傾げたりしていたかと思ったら、ままならぬ父子の関係、才能と人生のきらめきの刹那性に心がキュッとなり、かと思えばいつのまにかフィクションの境界が崩されていく文学性に圧倒される。

物語の後に英訳者(原語はスペイン語)の作成した年表が付いているのだが、最初の読者だった現地労働者たちから寄せられた写真やコメントももはや「作品」の範疇であり、しかもそれが訳者あとがきで明かされることまでもが「作品」だと認識させられる。読み進めるうちにどんどん視点が俯瞰していって重層構造を理解させられていく感覚があり、どこまでが「小説」と呼べるのかという問いになる。

数々の引用や固有名詞への間テクスト性もまたこの「作品」の範疇であるということがねらいなのだとすれば、もちろん瞬時に文脈を呼び覚ませる記憶の引き出しがあればずっと楽しめるとは思う。ただわたしのようにそのほとんどが理解しきれず、良くてもミリしらだったとしても面白いと思わせられるのが、このどこまでも拡大していく作品ゆえの懐の広さなのかも。

とかつらつら考えたけど、そういう実験結果どうやった?みたいなのがなくてもこの面白さは小説の細部にあって。親父が口から飛ばした爪がノートの上に飛んできたのを丁寧にまるで囲って書きかたの宿題やってる描写とかさ……きたないけど、なんかこういうの読みたくて小説読んでるんだよなって思う。感想は以上。(この言い回しも癖になる)

 

『関係あること 近くにいること』むまさん

ブログが大好きで購読しているむまさん(id:l11alcilco)の日記本、買えるんだ!と気づいて読めてうれしかったです。むまさんの文章ほんとうに好き。わたしは4年程前に自分が仕事がしんどかったとき、仕事で悩んでる様子などをつづっているブログを探していて購読しはじめたのがきっかけだったのですが、そういうものも含めて正直な内面を、あくまで淡々と、ユーモアだとか知的な思索をまじえつつ、でも全体としてはゆるっとした雰囲気で書けるというのが、むまさんの代えがたい持ち味だと思う。お父さんの死に際して悲しいとかだけじゃない様々な思いが去来してる様子とか、お坊さんに故人の人格を説明してるところとか、きょうだいもいるなかでお母さんと自分との関係の役割を認識しなおすところとか、好きでした。

あとこの粒度の日記を毎日書き続けられるというのも結構ただごとではないよな…とも。さらっと書いてるけどけっこう大変なことがいろいろ起こっている人生のフェーズだと思うし、おそらくはわたしもいつかは似た出来事には直面するはずなので、実用面とともに、心の持ち方みたいなものを先に想像しておく本でもあった。

画像をのせながら思ったけど、『俺の歯の話』と何となく表紙が似てておもしろい。この表紙絵、細長いふわふわした有機的なものが浮かんでどこかに飛んで行ってしまいそうな感じ、ゆるいけど知的でおしゃれさを感じる雰囲気が内容にもめっちゃ合っていて素敵です。

 

『九月と七月の姉妹』デイジー・ジョンソン

これはシャーリイ・ジャクスンみたいな本を読みたいと思って本屋で見つけた。帯には確かにそう書いてあるのだけど棚に刺さってた背表紙だけでそれを察知したのは我ながらすごい。

確かに家庭内での支配被支配関係について書いてるという点では同じ香りがするのだが、最後まで読むと『いなくなくならなくならないで』の裏返しの結末だなという気がした。『いなく』は切り離すことで前向きな結末を得るけど、この『姉妹』はたぶん死の瞬間まで切り離せない。

というか、セプテンバーが死んだことにより、支配関係が薄まるとともにジュライの中にあったもともとの「わたし」とセプテンバーの境界とが曖昧になり、よりいっそう「わたし」の中でセプテンバーを切り離すことが不可能になってしまっている。そういう意味では「死によって閉鎖的な人間関係が永遠になるという夢想」という結末と読めるのだが、シャーリイ・ジャクスン小説に感じるようなメリーバッドエンドを感じないのはやっぱりジュライが生き残っていることで、ジュライの生がこれからも閉じられた中で続いていくことで本物の孤独になってしまった、文字通り人生のすべてをささげたのだという救いのなさを感じるからだと思う。

 

『ピクニック・アット・ハンギングロック』ジョーン・リンジー

シャーリイ・ジャクスンみたいな本を読みたいと思って本屋で見つけたその2。

sanasanagi.hatenablog.jp

 

 

『ヴィクトリア朝怪異譚』編訳:三馬志伸

ジョージ・エリオットの短編が入っていると知って入手したアンソロジー本なので贔屓目かもしれないけどやっぱりエリオットの『剥がれたベール』が一番おもしろかった。ホラーものの括りだとしても、呪いとか幽霊とかいうよりは「他人の内面を覗き見ることができてしまった人間の苦悩」という設定を持ってくるところにエリオットの関心の核がうかがえる。しかもこの小説を読んだ読者が現実世界の結婚のありかたを考えざるをえない構図になってる。信頼と尊重、そして適切な歩み寄りが不可欠なのであるということを(本文には一切言及することなく)逆説的に感じさせるというか。『ミドルマーチ』でも結婚のさまざまな形のサンプルを書いてるのが面白かったので、エリオットは英文学古典名作枠ではあるものの変に頑張って若い頃に読まなくても個人的には自分自身が結婚して他人と暮らす経験をしてから出会えてよかったなーと思っている。

他、収録作も現在のミステリ・ホラー小説の源流かと思うと興味深かったのだが、一番最後の『老婦人』という作品は幽霊譚としては全然こわくなく、なにしろ幽霊になるのがある日突然ぽっくり亡くなった上品で美しいおばあさんなのである。生前にちょっとした茶目っ気をだしてやってしまったイタズラが遺言にまつわるものであったため最愛の養女に遺産を何も残すことができなかった…という話で、もはやドタバタコメディの様相。でもわたしのイメージするさいきょうのヴィクトリア朝っぽさはめちゃくちゃあり、ひたむきな家族愛を美徳とする価値観/理不尽なまでに硬直化した階級意識(上流階級の人間はどんなに金がなくても働くことは卑しいとされているため働けず、職業を持ってる人間はどんなに善良で親切でも見下されてるみたいなやつ…)/そして幽霊話を信じるの信じないのでみんながパニックに陥ってるときの大げさな感情表現の応酬は完全に喜劇。当時の人も小説という媒体を通じてこういう姿を客観視するにあたっては、やっぱり滑稽に感じていたのだろうか……。

 

『恐怖の正体 トラウマ・恐怖症からホラーまで』春日武彦

著者は精神病を専門とする医師なのだが、医学的見地というよりはむしろホラーオタクの著者によるホラージャンルブックガイド・映像作品ガイドの側面も強くて想定外の楽しみ方をしてしまった。恐怖のバリエーションについて体系立って整理されているのも面白く、一口に「こわい」と言ってもいろんな怖さがあるよねー、そしてどんな怖さがツボにハマるか(本気で怖いから触れたくないレベルから、フィクションならむしろ積極的に摂取したいレベルのこわさまで)人それぞれあるよなーと思った。

なお著者が1951年生まれの方なのだが、人生経験豊富だけあって各恐怖バリエーションごとに著者の実体験(心霊的なホラーではなく日常的冷や汗タイプのホラー)が添えてあるのがエッセイ調でおもしろい。

意外なところで共感したのは全然ホラーじゃないんだけど初期のきかんしゃトーマスのくだりだった。。大人になってから子に見せようと改めて見直したところ本当に子ども向けなんか?と思いたくなるブラックユーモアと大人になってこそ感じ取れるグロテスクな味わいがある……。(そもそも汽車に顔がついてて目玉だけがギョロギョロ動くのがビジュアル的にこわいよな…みたいな話が本書にもあるのだが、静岡県の大井川鐵道なんかでは実際に人が乗れるサイズのトーマスとなかまたちが町中を走っているんですよねえ……)

 

『「性格が悪い」とはどういうことか――ダークサイドの心理学』小塩真司

気にならずにはいられないタイトル。心理学の先生がその分野の重要な実験を「ダークな性格」という切り口で一般向けに分かりやすくまとめているものでした。性格が悪いとはなにかという問いの答えを探すというより、心理学って人の心に対してどんなアプローチをするのかという視点で読むのがいいのかなー。自分自身も漠然と感じていたことにエビデンスが与えられる感覚を楽しむというか。

並行して読んでた『恐怖の正体』には「心理学の実験だとか(略)無味乾燥な話は避け…」云々と書かれていたけど、心理学の実験の話って普通に面白いよね。といいつつも、そもそも実験者の仮説ありきで実験が組み立てられ、結果からなにを読み取るかという部分に実験者の偏見やバイアスがかかってしまう部分はどうしても避けられないよな〜という印象も持ってしまった。この本がどうこうというわけではなく、心理学実験って研究者がある仮説をもとに実験を組み立てるわけで既成社会のステレオタイプに左右されがちなのでは?と。

と感じたのは、第3章で紹介されてる実験のうち例えばソシオセクシャリティ(情緒的な結びつきがない相手との間で性的な関係を築く傾向)の実験で、女性にだけセックスワークに従事した経験をカウントしている点とか……。女性がセックスワークに従事するのは経済的な理由が占める割合も大きいのであって、男性がそれを消費者として利用してる数と同じようにカウントするのは違うのでは?それで女性の場合はサイコパシーが高く出るのなら、第2章でみたところの「冷淡さ」が仕事の上では有利に働くことがあるという話と関わってくるのであって、セクシャリティとの関連性には疑問符がつく気がするのだが……とか。実験そのものに対する批評性みたいなものはないのだろうか???

 

『ことばが変われば社会が変わる』中村桃子

帯にある「ひとの配偶者の呼び方がむずかしいのはなぜ?」というのがとにかく気になって読んだ。今年7月に出たばかりの本だけあり、同時代性というか確かに思い当たる節がものすごくある。言い当てられる感じというかなんとなく感じてはいたことが言語化される感覚。

結局、「ひとの配偶者の呼び方」問題については「正しい日本語を使いたいという気持ち」が存在する日本語(というか日本人?)の特徴であり、「看護師」や「保育士」のように法律で決まった時は瞬く間に人口に膾炙したのに草の根活動では中々広まらないという例が紹介されているのには確かに心当たりがありすぎる。しかしそれなら個人としておかしいと感じる人が増えることでお上を動かすしかないのかな。地道に親しい間柄の人相手から「正しい日本語を使いたいという気持ち」を我慢したり、そもそも「最近こういう本を読んでね」みたいな取っ掛かりで話をしていくこともできるよなあ、と考えたりした。


『ストーリーが世界を滅ぼす』ジョナサン・ゴットシャル

少し前に話題になっていた印象の本が図書館で回ってきた。終章まで読んで、結局人文学って何やってるんだろってなりましたが……2400年前にプラトンが気づいて本に書いて19世紀にトルストイが気づいてまた本に書いてたことを21世紀になってまた本に書いて、みんなわかったよってなったとしても自分が物語思考に支配されてることからは逃れられないんだものね……

個人的に著者の悲観視がすぎるという印象を受けてしまったのは、やっぱりトランプみたいな為政者が国のトップになってしまったーという絶望感を、肌感覚として共有できてないのかもしれない。むろんソーシャルメディアが分断を増長する構造を持っているのは物語思考によるものという指摘は納得はしたし、わたしの見てる世界こそが狭く分断されきった井戸の中ということなのかもしれないが。

 

舞台

ライムライト

感想を別途記事にしました。石丸さんが物悲しい背中をしている演技が好きなので『シークレット・ガーデン』もまた再演してほしいな~(わたしの中では何となく同じカテゴリにいる二作品…)。

sanasanagi.hatenablog.jp