耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

2022年7~8月に読んだ本と映画

最近のようす

なんだか毎月のように風邪をひいている気がする。保育園から貰ってくるのは、子どもたちの様子が載っている楽しいおたよりだけじゃないみたいだ。わたしが家でダラダラ仕事している間に我が家の子どもは活発に過ごしている。その様子が掲載された毎月のおたよりや毎日の「れんらくちょう」が、なんだかんだ今いちばん楽しみにしているエンターテインメントではある。

 

ヘンリー・ジェイムズ傑作選 (講談社文芸文庫)

重厚で長々しい小説を書く作家、というヘンリー・ジェイムズのイメージが良くも悪くも変わった中期の短編集。訳者解説にある通り、後期の長編から入るよりこちらの作品から入る方が絶対親しみやすいはず。いずれもストーリーは単純だし結末はあっけないものの、「信頼できない語り手」的な読み方をすれば主人公の思い込みや願望が浮き彫りになる。主観によって見える風景がいくらでも変わりえてしまうという人生の皮肉を感じさせて面白かった。翻訳が行方昭夫さんだから文体のせいかもしれないが、サマセット・モームかと思わせる雰囲気が漂っている。


広瀬 友紀『ちいさい言語学者の冒険――子どもに学ぶことばの秘密』 (岩波科学ライブラリー)

我が家の子どもは今1歳ちょっと、お話しできるようになったら意思の疎通ができるようになるからたのしみだな〜、なんてのんきに思っていたのだけれど、子どもの言語の習得はたんに言葉を「おぼえる」だけでなく、ちいさな頭の中ではもっともっと複雑な能力が育っているものなんだなあと感心した。規則を自分で導き出して、かわいい言い間違いを何度もしつつ、いつのまにか自力で微調整して。(この、子どもはどこまでも「自力で」やろうとする…というところが人間を育てる面白くも大変でもあるところなんだろうな〜)

 

北村紗衣『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』

北村紗衣さんの『ミドルマーチ』批評が載っていると聞いてとても楽しみにしていた本。

長大な『ミドルマーチ』を読む時に一番やりやすいのは、たぶん「推しキャラ」を作って、その話に着目して読むことだ。

まさにわたしもこの読み方をしていたので「やっぱりそう読むと楽しいよね!」と嬉しくなった。(ちなみにわたしの推しはメアリ・ガースで、主人公ポジションのドロシアはちょっと高潔すぎるかんじがするため「推し」とまではいえない。)
知的で自分なりに社会に役立つ方法を真剣に考えているドロシア、そしてメアリはドロシアよりもお金のない階級だが、しっかりと信念を持って自己の振る舞いを確立している女性だ。現代人のわたしとしては、彼女たちが自立して前向きに生きる話を期待してしまうのだが、残念ながらそうではない。ミドルマーチのエンディングは結婚して家庭に収まり、めでたしめでたしという話になる。そのフラストレーションはまあ、作品が成立したヴィクトリア朝という時代の限界なんだよね、ということが北村氏の批評では書かれていて、モヤモヤが少し晴れた気がした。

その他、個人的にはソフィア・コッポラの映画「マリー・アントワネット」が不条理劇の文脈で読み解かれていたり、ウィキペディアの書き手内における男女間の不均衡について書かれていたり(これを読むまでそんなこと考えてもみなかったのだが、言われてみると女性に関する記事や女性が好むとされているジャンルの記事は内容が薄かったり、情報の最新化が遅いなと感じる場面があった)刺激的でおもしろかった。

 

橋本治『国家を考えてみよう』

ちょうど選挙があったころ、以前ちくま新書のセールで積読していたものを読んだ。最初は「国家」という言葉をこねくりまわしているだけでは?と少々懐疑的になっていたのだが、しかし我々日本人がそもそもこの「国家」という概念について曖昧な理解しかないまま来てしまっているから民主主義がうまくいっていないんだな…ということが、ゆっくり丁寧に説明されるうちにわかってくる。
明治の人間にとっては「家長」に逆らうことは非人道的とさえ感じられるほどのことだった。そして令和に生きるわたしも、心の深いところではそういう感覚から逃れられていないようにも思う。国家とは、権力とはわれわれのものではなくて、だれかえらい人のものなのでは? 人の上には人がいて、逆らったらやばいのではないか? 頭ではそうではないとわかっていても、肌感覚としてそういう気持ちがベースにある。いつだって簡単に大勢に流されてしまうから、まずはそれを自覚していることから。

 

太田啓子『これからの男の子たちへ』

ジェンダーに問題意識を持って世の中を見回すと、現時点の社会は課題が山積みすぎるような気がして一体どこから手をつけたらよいのやら…と途方に暮れる。でも少なくとも、これから他人の言動やメディアからバイアスのかかったメッセージを大量に受け取るであろう子どもに、逐一何が問題であるかきちんと伝えること、自分の気持ちを自力で言語化して社会からの抑圧に疑いを持てる力を育む手助けをすることは一つのやり方だ。

わたしの子どもはまだこれから言語能力を獲得するところという年齢だけど、そもそも子育ての中で善悪の価値判断を形成するためには本人が経験した状況に逐一ストップをかけて言って聞かせる、とか、本や漫画を通して他人の痛みを想像する経験をさせて考える訓練をするとかをやっていかないといけないんやな…と、育児の基本姿勢についても学びになった。

ジェンダーに関しては、たとえば「人を傷つけたら誠心誠意謝らなくてはいけない」とか「他人の嫌がることをしてはいけない」とかみたいな具合に世の中における善悪の合意形成が完全になりたっていない。しかもわたしたち自身も明確にだれかから教わっているわけではないことが多い。ということは、親がこうした本から問題意識を学んで考えた上で子どもに明確に言語化して伝えなければいけない。だから悩むし、難しい。教えるべきことを見過ごしてしまうのではないかと思うと怖い。

でも、この本のおもしろいところは、著者とジェンダーに関心を持っている人との対談が収録されているところ。「我が家のジェンダー教育は、わたしの肩にかかっている…!」みたいな気負いを少し横に置き、別の角度からもものを見られて良かった。たとえば清田隆之さんとの対談では、彼自身が無意識に手にしていた有害な男らしさに自覚的になっていく過程が語られていて、ある程度の年齢に達しても自分の過ちを認める訓練さえ積めば差別的な言動を顧みて見直すことはできるのだな、と。何よりその過程もエピソードとして面白いし。

小島慶子さんとの対談では、一定以上の年齢の人の意識に深く食い込んだミソジニーを打ち消すよりも次の世代の男性の意識を新しいものにする方が(限られたエネルギーの使い道としては)効率的だというようなことを言われていて、これが離婚裁判やマスメディアの現場で実際に数々の対話を重ねてきた方々の結論なのかと思うと、現実問題そうなんだろうな…と思ってしまう。(良いことかどうかは置いておくとして…)

それにしてもこの人たちほどしっかりと問題意識を言語化して子どもに懇々と言い聞かせることはできないな(それも日常生活の中で)とまた自信を失いそうにもなるのだが、しかし小島慶子のような人はある種のスーパーウーマンなのだ。彼女をモデルにするというよりは考え方や伝え方を取り入れつつ自分なりにかみ砕いて、自分たちの家庭にフィットする伝え方を考えていきたいなということを考えた本だった。

 

高階秀爾『日本近代美術史論』

大学の専攻は西洋美術史だったので日本美術史は全然知らないな〜と思っていたときにkindleのセールで衝動買いした本。
先行研究を踏まえつつ、独自の観点から研究対象の命題を解き明かすという論説の形式で日本近代の画家を紹介しており、わたしのような知識のない輩にもわかりやすく、勉強になる。しかも、その命題を設定する導入部が随筆調となっていて、とっつきやすい。文体も正統派な論説文の流れを取って明解なため、テーマがあざやかに解説されるスリルを味わうことができる。論文みたいな理路整然とした文章を読まなくなって久しいが、たまにこういった文章に触れると脳の回路が刺激されるようで楽しい。

 

★映画

最近ついにAmazonプライムに入ったので、子どもが寝た後で映画をみたりもしていた。

 

レディ・バード

グレタ・ガーヴィグ×シアーシャ・ローナンの初コンビ作ということで『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』を観てから気になっていた映画。なんかこういう話を10代の女の子視点ではなくて母親目線でみてしまうようになったよね…ってこれから高校生主役の映画見るたび毎回いってる気がする。

いろいろ詰め込んである感はあるけど、結局は母と娘の物語。クリスティンが母とぶつかるんだけど、なんだかんだ仲良しなのすごいわかる。近くにいすぎるから、喧嘩とか仲直りとかいう概念がなくて、息をするようにぶつかるし、いつのまにか普通に会話したり頼ったり。そういう母娘関係が根底にあるから、クリスティンには当たり前のように最高の親友もいるし、他人にも正直にまっすぐにぶつかれるんだろうな。10代の女の子らしく恋愛でも友人関係でも些細ながら「うわあーーー」って言いたくなっちゃう失敗をいろいろするんだけど、クリスティンのリアクションにいちいちユーモアがあって、でも決して情けなくなくて毅然としてるところが大好き。

あと客観的にみてるとこの母親、そこまで娘に意地張らなくたって良いじゃんって思うんだけど、それはわたしが思春期の子どもを育てたことがないからそう思うのかもな…とも思った。「love と attentionが同じことでしょ?」っていうシスターの言葉、クリスティンにはどこまで刺さってたのかな。ほんとは分かってたけど、本当にはわかってなかったんだよね、真に自活しはじめるまでは。

 

『9人の翻訳家 囚われたベストセラー』

めちゃくちゃ面白い…フランス語圏の映画なので先入観からなんとなくオシャレで分かりにくいのを覚悟していたんだけど、実際は明快なエンタメだった。どんでん返しにつぐどんでん返しがあるミステリー。構成が神。でも最後は物悲しいエンディングというか、翻訳家たちのキャラが立ってるだけにわたしはみんながハッピーになるエンディングが観たかったな…。特に(以下、ネタバレ)「あのスウェーデンのワーママ翻訳家の人は死なせないでほしかった。なんというか自分が一番感情移入できるポジションの人だから余計に…。

渦中の作品の中の謎として、レベッカが誰に殺されたのか?という謎の解釈が分かれてるみたいな話があったけど、それがこの話の真相にも重ねられてるってことなのかなと気づいた瞬間ものすごくワクワクした。そしてロシア語翻訳の人の解釈が実は的を得ていたのかも、と。作者は作品について語ることで作品を本当に愛して深く理解してくれる人に出会えたのだ。

まあ全体としては辛い話なのだが、みんなでチームを組んで原稿を盗むくだりとか、敵のわからない言葉で作戦会議する(翻訳者ならではの鼻のあかし方)とことかワクワクする仕掛けがあるから楽しめちゃうよね。

地味に印象に残っているのはコピー機あるあるネタ、そしてエンドロールの直前のわずかな違和感。

 

幸せのちから

夫が聴いているミルクボーイのラジオで駒場さんが好きといっていたらしく、一緒に観ることになった。ウィル・スミス演じる主人公は幼い頃にホームレスとなった親に捨てられ、成長して妻子ある身となってからも経済的にひどく困窮し、それが原因で妻とも別れることになる。子どもを養う必要があるため一念発起し、持ち前の数学的才能と人柄を活かしてひたすら努力し証券マンとして成功するというストーリーだ。

多分、2006年の公開当初に観ていたらすなおに感動していたと思うのだけれど、もしかしたら2020年代のいま同じ題材でつくったらまた別の趣がある話になるんじゃないかという気がする。というよりは、この映画がすでに古典化しているということなのかもしれないが。とにかく今現在のわたしの目から見ると、格差社会を是認するかのような社会が特に批判的に描かれていないようなのは物足りないし、なによりも別れた妻のその後がきれいさっぱり描かれていないのが残念だった。ご都合主義でもいいから最後に妻と再会してほしかったな……