耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

川上未映子『夏物語』- 感想というより個人的すぎる覚書

子どもを産むか否かの選択を考えさせられる作品だと聞いていたので、すでに産んでいる身としては何となく読むのがこわくて、何年も夏が来るたび後回しにしていた本。
子どもを産む理由も産まない理由も、書いてることも書いてないことも含めていろんな角度から見えるようになっていて。穏やかな中にユーモアや悲しみや怒りで何度も心を揺さぶられながらも、わたしにとっては共感と励ましの本であった…今のところは。

 

 

わたしは今までの人生で取り返しのつかないくらい傷ついたこともなくて、鈍感で想像力が欠如していて、ただのラッキーだけで今まで生きて来て、だからこそ幸せなんだろうな、と思う。そういう生存バイアスみたいなものを「神の意思」と名づけるとしてもしなくても、ラッキーなだけで楽しく生きてる人が、自分みたいな人生であれ、と無邪気に願って子ども産むのは人間社会のサイクルとしてすこぶるわかりやすい。

子ども産むのはエゴの押しつけだというのは全くそのとおりで、子どもが何らかの確率で生きてること自体が苦しい思いをするかもしれないのに、それでも産むのか、という問題には、正直わたしは、妊娠してしまってから初めて思い至った。

だからそこを考慮して込みで産もうと思えるか、というのは今では分からない。今のところ2人目を産まない、と思っているのも眠っている子どもを起こしたくないとかではなくて、むしろ私自身のエゴみたいな理由からだし。

ただ、子どもが眠っているのだから小屋のドアを叩くな、というのは少し違う気がしていて(筆者がどこまで意図的にこの比喩を反出生主義の人物に言わせたのかは分からないけど)、産まないと決めたら、小屋に眠ってる子どもは存在すらしていないんだよ、と思った。

何かを感じる以前に、存在すら、最初からないんだよ。そこには眠っている子どもなどいない、ただ空っぽの小屋がある。

そこにだれもいないことと、決して目を覚まさなくて何もできなくて何も感じないとしても、だれかひとりの人間がそこにいることは、違う。

すべての人が子どもを産むべきだとは思わない。だけど、すべての人が産まないべきだとも思わない。

善百合子さんみたいな思いをした人が、同じ思いをさせるかもしれないのなら子どもを産むべきではないと考えるのは当然だし、わたしが彼女だったとしてもきっとそう考えるだろうと思う一方で、だけど、わたしは善百合子ではない。

わたしのせいで誰かが死にたいぐらい苦しむとしてもいいのか、と言われれば、そうかもしれない。それくらいわたしは、無神経で、鈍感で、冷酷で、想像力のない人間。

そういう人間たちのおかげでわたしは今ここにいると思うから、正しくも優しくもない自分勝手きわまりない自分が、わたしは平気なのであるにすぎない。

わたしは自分が完璧になにかをできるとは人生で一度も全然思ったことがなくて、だから子育ても完璧にできるわけがないと最初から思ってる。自分勝手で産んだからには、自分のできる限りのことはやるのが義理だとは思ってるけど。それで全然、いいと思ってる。

この小説は、いろんな考えの人を直接的には否定しないのに、こういうわたし自身のどうしようもなさも思い出させる。

もうひとり、この小説のなかでよく思い出す人といえば、仙川さんだ。(この小説の中に印象的でない人などいないのだが)

もしかしたら自分の10年後はこうだったかもしれない、という想像が一番つきやすいからかもしれない。

仙川さんのことについて、子どもがいないとひとりで死ぬんだよねみたいなふうに受け取ったら「ハイハイ」って感じになっちゃうけど、わたしは逆に、子どもがいないと究極、死ぬのも死なないのも自由だなあって感じがしたんだよね。

ひとりで生きてひとりで死ぬ自由。

同じやんと思われるかもしれないけど、子どもじゃなくても恋人でも友人でも家族でも推しでもその他の大切な人でもものでもなんでも、「わたしをこの世にしがみつかせるもの」が無かったら極論、自分を大事にする理由も見失いかねないのよな、という感覚はある。

わたしも30手前の、まだ自分が子ども産む気もなかった頃、休みの日にマンションの窓から下を見おろして、「なんかこのあと人生何十年もつづくの、長すぎるなあ」と思ったことは覚えてる。別にそのときとりたてて何かがしんどかったという記憶はないのに、ただただシンプルに「長いなあ、早く終わらないかな」って。名作だからおすすめされたけどどう考えても退屈な映画みてる時間みたいに。

これはあくまでわたしが自分の気持ちを思い出したというだけの話で、仙川さんがそう感じてたかどうかは、作中には直接書かれてない。彼女がこの世を去ったのも本人の意思ではない病気のためだ。だけど、その感覚と、家族を持ちたいという感覚は、関係している気がどうしてもしている。

344ページで、「これしか、できないのではないだろうか。」というところに線をひいていて、本当に、そう思ったから私は産もうと思えたんだよな。と思った。わたしにできることしか、できない。そして、こう思って産むことにしたんだよね、ということを忘れないでいなければ。