あけましておめでとうございます。今年もぼちぼちと読んだ本の感想を書いていきたいなと思います。
最近だれにも頼まれてないのに一生懸命ブログに感想書いたりして、わたしって何なんだろうと思うこともあるけど、これが好きでやってることだからしかたない。本読んでも感想書いても別になんにもならないけど、もう癖みたいになってるからついやっちゃう。今年もそんなかんじですので、ひとつよろしくお願いいたします。
読んだ本
『暇と退屈の倫理学』國分功一郎
難しそうで敬遠してた本なのですが心底読んでよかったです。難しいことをこれほど分かりやすく腑に落としてくれる知性に感動。そのおかげで哲学の議論があたかも「これって当たり前のこといってるやん」と思わせてくれる語り口ですよ。哲学ってわれわれがそれぞれ違った考えで違ったようにみてる世の中をどのような言葉で切り分けるのかっていうことなのかなあと。
内容についてはわたしなどが要約したとしても本文以上に明快になることはないので避けますが、毎日仕事だのやるべきことだのに追い立てられて、稼いだ金を次々に煽られる消費の欲望を解消するために使ってる、自分の人生ってなんなんだ……?という感覚をもっている現代人はかならず刺さるものがある本だと思う。
増補部分の「記憶が痛む」の話もめちゃくちゃ面白かったな~。「記憶が痛む」が退屈の正体なのかどうかは正直「そうかな…?」とちょっとピンときてない部分があるのだがしかし、「記憶が痛む」こと自体はものすごく覚えがある*1し、これを癒すのは他者との体験であるというのも「そうなのよ!!!!」と泣き出したくなるくらいわかる。
わたしは「痛む」記憶とは他者との関係の破綻の中で発生するものであるからこそ、別の他者との関係性を再構築することで痛みが癒されるのだ、と、自分の過去の失敗や恥ずかしい失言などを思い起こしながら解釈しました…。
となると「退屈」が指している実感としてわたしが思い浮かべてるものが、ちょっと違っている可能性もあるのかなあ…単純に刺激に引き寄せられる感覚というよりは、もっと寂しさみたいなものに近しいのだろうか?
『恋愛中毒』山本文緒
いやはや面白かった。また一気読みしてしまった。
これ、恋愛中毒というタイトルだけど実質は父と娘の話だよね? と思う。恋愛にのめりこみ、相手の男に夢中になってしまったというわけではなくて、もともとこの美雨という女性が、自分のなかに抱えていた空洞を埋める方法を恋愛しか知らなかった、という病めいたものの話だ。
突然自分の話をしますが、わたしは一人暮らしの部屋って自分で選んだものだけで埋め尽くせるから最高と思うタイプで、勝手に家具を送りつけてくる人間なんてたとえ心酔している異性だったとしても絶対に許せない、最悪だと感じる人間なのでこの美雨という人の恋愛体質にはまったく共感できない。しかしこの小説を他人事だと思えずに目が離せなくなってしまうのは、これが書かれているのがやっぱり親と子の間の呪いの話であり、支配の話であり、自分の外側に父的なものも母的なものもみつけられないまま大人になってしまった人の話だと思うからだ。
だけど林真理子の解説を読むに、これを恋愛の話だと解釈する人もいるのかな。終盤が種明かしだと思う人はこれを「全身全霊を恋愛に賭ける女の話」だと思うのだろうし、だけどわたしはp.262あたりが種明かしだと思ったので、これを「自分に欠けている父的なものや母的なものを自分の外側に見つけて自分の人生を埋めていくことができなかった女の話」だと思ったんですよね。
解釈が人によって違う、というよりは、夫のモラハラとか親からの愛情への飢餓感を、女たちが「自分のせい」ではなくて「社会の問題」だと認識するようになった時代の空気感があるからなのかも。最初に刊行されたのは1999年の本だが、時代が明らかに変わった今読むからこそこの小説の解釈も変わったということなのかな。
『家庭用安心坑夫』小砂川チト
じつはこれも父と娘の話であった。そして母と娘の話でもある。表紙のスマートな顔のない男性と「夫」という文字からの連想で、勝手に夫婦を題材にした小説だと思い込んでいたのだが、思いのほか影の薄かった夫の存在。
後から読み直すと、ちょうど前半最後の50ページあたり、ここで主人公が父親に言いたいことを全部言ってるんですよね。偶像(マネキン)だけども。
それでもそのあと「謝りたい」とかいう感情になったり、あるいは「ツトムにこうしててほしかった」と自分でわかるまでこんなにじたばたしなきゃならない、父子関係ってなんなのだろう。母親は子に「おまえは◯◯だから」と言葉で呪いをかけるが、父親の呪いは父親自身がかけるものではない、外側からくる呪いだ。父親にとってよき娘であれ、永遠に、と。
夫がいなくなったのも、夫がどうこうというわけではなく、小波が個人として男性の他人と向き合うことができなかったからなのだと思われる。
読んでいる間には何度だって語り手である主人公小波に裏切られてきたが、それは彼女の主観的な語りが社会を記号的に捉え、彼女の乏しい記憶と結びつけ続けるからだ。だけど考えてみれば誰だってそんなふうに自分の見たものを自分の知っているものと結びつける、そんなことを繰り返しながら四苦八苦しているのだから、この心の働きを表現してるという意味では面白い書き方なのかもしれない。
『翻訳する女たち 中村妙子・深町眞理子・小尾芙佐・松岡享子』大橋由香子(著)
わたしが海外翻訳小説を読むようになったのは子供の時、地元の図書館にあったハヤカワミステリ文庫(当時)のアガサ・クリスティーでした。そして大量にあるクリスティー作品のうち、次はどれを読もうか?と悩んだとき実践したのが、前に面白かった作品と同じ訳者のものを読む、という方法でした。
こうして翻訳者の名前を覚えたので、クリスティーを読まなくなっても中村妙子さんや深町眞理子さんの名前を見かけると「おもしろいのでは!?」と直感的に思う。松岡享子さんも同時期に好きだった『くまのパディントン』が思い出される。SFはあまり読んでこなかったので、小尾芙佐さんを初めて認識したのは大人になってから、ル・グィンの『闇の左手』かなあ。
この方達が昭和の戦争を生き抜き、女が働くのがまだ一般的でなかった時代に仕事を持つ女としてやってこられた方だということは、意識したことがなかった。若い頃にどのように仕事に就いたかという部分は、皆が社会を立て直そうと必死だった時代を感じさせるものがあるけれど、むしろ長年働いてこられた方がどのように仕事に向き合っているのかという話は興味深い。仕事にたいする向き合いかたにも個性がある。ひとりでする仕事だし、ある種技術専門職みたいなものだから参考にできるわけでもないけれど、一方で本人なりの「流儀」みたいなものがあるのだなと思うと背筋が伸びる。
『曇る眼鏡を拭きながら』くぼたのぞみ・斎藤真理子
特に意識したわけではないのに、翻訳者のエッセイ続きだった今月。といってもこちらは翻訳家の生活というよりは「読んできたもの、書いてきたもの」まわりについて語っている往復書簡。
翻訳する人、とは読むひと、そして書くひとなのだとつくづく思い知らされる。それは決して言葉をそのまま置き換えるようなものではなく。過去に読んできたものがその人生と接続している。読んでからもう40年も50年も経ってようやく自分のなかで物語化されていくことも 、頭の中に張りめぐらされた複雑な蜘蛛の巣みたいに、結びついては張り付いて。あまりに膨大に絡んだ糸をまた言葉で表そうとするなんて途方もない試み、だから眼鏡は曇っている。
取り上げられている書籍は未読のものばかりなのだが、それ以前に今のわたしが頑張って読んだとしてわたしの人生に接続する力があるのか、と考えるとまったく疑問。ただ文字を追い読みきる、ということだけでなくて、読みとり咀嚼して血肉にしてこられた膨大な背景があるからこそ、力強い文学作品を次々と素晴らしい翻訳で届けてくださっている現在があるのだと思うと、ありがたくて拝みたいような気持ち。
翻訳する人の志のなかに日本語を貧しくしないためにというのがあるというの、『翻訳する女たち』の松岡享子さんの章にもあったし、先月読んだ『翻訳をジェンダーする』も思い起こされる。外国から導入してきた概念を日本語にする試みを、諦めないでバトンを渡しつないできた人がいて、われわれが今抱きとめられている言葉の豊饒がある。これから韓国文学で「雪片」という言葉をみるたびはっとしてしまいそう。
『挑発する少女小説』斎藤美奈子
子ども時代、大きな疑問を持たずに触れてきた児童文学たちを大人の視点で読み直す。これはわたしが絶対好きな本じゃないでしょうか? わたしは偽文学少女だったので『赤毛のアン』『若草物語』くらいしか読んできてはいないんですが、主人公の少女たちと同年代だったころは「わたしにはこうはできない」と半ばあきれるような、憧れるような気持ちを抱きながら読んでいたのを思い出す。
最近文芸評論をもっと読みたい気持ちもあったので手に取ったのだけど、題材のためもあるのか想像していた以上にポップで親しみやすく、そして同時になによりも切れ味鋭くもある語り口がなんとも爽快。
『ハイジ』のクララやペーター、『秘密の花園』の後半のメリーの影の薄い描写にたいする視線などは広い社会を見渡す大人ならではの鋭さにハッとさせられるし、いっぽうで嬉しかったのは、『赤毛のアン』の少女趣味をフェミニズムの文脈を引用しながら肯定して読み解いているところ。自分の欲望を抑圧しないことがフェミニズムだとわたしは思っているので。
『異常(アノマリー)』エルヴェ・ル・テリエ
本屋で見かけて気になっていた本が大好きなハヤカワepi文庫に入ってたので即買いしました。
舞台
『ウィキッド』劇団四季
日本語で舞台観られてよかった!という感想を書いてます。でも映画はできるかぎり字幕と吹替両方を映画館でみるつもり。四季は千秋楽までにもう一回おかわりしたいですが(次また何年後に観られるのかと思うと…)時間のやりくりとの相談だな~。
*1:具体例を書こうと思ったが痛みのため書くことが苦痛なくらい