(ネタバレあり)
ひとりぼっちで、学校に友だちはいない、憧れの女の子はただ遠くから見ているだけ。そんなさえない男子高校生エヴァン・ハンセンは、メンタルカウンセリングの一環として「自分に手紙を書く」習慣を持っている。ある日、ちょっとした行き違いで「自分への手紙」が級友コナーの手に渡るが、その翌日、コナーが自殺したという知らせを聞く。彼は「ディア・エヴァン・ハンセン」で始まる手紙をポケットに入れたままだった。学校で孤立していたコナーの遺族から、請われるように「友だちだったのか」と問われ、エヴァンはつい肯定してしまう。そればかりか、ありもしないコナーとの思い出を語りはじめるのだった…。
エヴァンはほとんど流されるようにして、何もなかったはずのところにコナーとの偽りの友情を作り上げてしまう。
観客がいつバレるのかとヒヤヒヤするのをよそに、雪だるまが坂を転がり落ちるように事態はどんどん進展していく。エヴァンが学校で行ったスピーチがYouTubeで拡散され、学校ではコナー追悼のチャリティープロジェクトが立ち上がる。エヴァンは裕福なコナーの親に息子のように可愛がられるようになり、コナーの妹(ずっと憧れていた女の子でもある)と懇意になる。
最初に嘘をついたとき、エヴァンはそこまで計算していなかったはず。少なくとも、ネットでパズったり好きな女の子と付き合うなんてことまでは。結果的にはエヴァンがそういうものを求めて他人の死を利用したみたいに見えているけれど。
ただ、たったひとりでいいから、自分にいたらいいなと願う「理想の親友」の影に手を伸ばしただけなんだと、わたしは思う。自分の孤独感を分かち合えるただひとりの誰かが、いてほしかっただけ。
エヴァンは母子家庭のひとりっこなのだが、母親に愛されている描写は割と最初の方から出てくる。ただ、当たり前なんだけれど、10代の男の子にとって自分の孤独感を埋めてくれるだれか、っていうのは母親ではないんだよね。たとえどんなに愛されていたとしても。親が家にいて子どものそばにいる時間が短いとか長いとかは関係なく。母親がどんなに寄り添いたいと思っていても、子どもが一人で向き合わなければいけない苦しみは必ず出てくる。
この映画にはエヴァンとコナー、それぞれの母親が対照的なキャラクターとして登場し、非常に強い印象を残している。母親という存在もまた不完全で傷つきやすく、自分自身と自分の大切なものを守るために強くあらねばならないプレッシャーを感じながら、母親をやっているのだ、ということを思うと胸が押しつぶされそうだった。自分がエヴァンの、あるいはコナーの母だったらどんなふうに振る舞えるだろうか、と考えずにはいられなくて。「親であること」を失敗するのではないかと思うのはめちゃくちゃ怖い。…本当は成功も失敗もないはずなのだが。
ディアエヴァンハンセン観てきた。完全に母親の目線で観てしまった…エヴァンのおうちみたいな事情に限らず、どんな親でもこどもの過ごすすべての時間を、すべての経験を見守り続けることはできないんだよね。親ができるのはただどんなあなたでも受け入れるよ、ってメッセージを発し続けることだけ。
— さなぎ (@sanasana0111) 2021年11月28日
全方面からみて正しくあらねばならない、人生が充実していなければならない、他者に評価されていなければならない、みたいなプレッシャーや、「こうありたい自分」と実際の自分との解離ってただでさえしんどいものだと思うのに、今の10代はネット上で評価された数字=その人の価値である、みたいな幻想に常に追い回されて、「単なるわたし」のままでいることがいっそう難しいだろうなと思う。
作中でも、優等生である一方メンタルに問題を抱えているアラナという女の子が出てくるけど、日本みたいにテストの点さえ取っていれば優等生になれるわけではないアメリカの高校って(一長一短ではあると思うけど)息苦しい面はあるだろうなと思う。社会貢献活動をして、リーダーシップをアピールしなければならない。そういう重圧とインターネットで刻々と増えていく「だれかの賛同」の数字はめちゃくちゃ相性が良い。
物語の発端で自死をえらんでしまうコナーの真の苦しみが置き去りにされたまま、その死への追悼メッセージがWEBで拡散され、感動ポルノのように消費される。そのことに皆が(遺族でさえ)ほとんど無自覚でいるような描写に居心地が悪くなるのは、自分自身にも身に覚えがないとはいえないからなのかもしれない。
だからといって、たとえ嘘から出たものであっても、どこかでだれかが「救われた」というのなら、その感情が動いたということに関していえば、ある意味いくらかの真実があるのかもしれず。そう考えると、嘘つきは絶対に悪だとか、エヴァンみたいにだれかを傷つけるかもしれないから、それじゃあ何も語らないのが良い、ということを言いたいわけでもないと思う。
ただ、悼むときには最低限、死者に対し誠実であろうとはしなければいけない、とわたしは思う。なぜなら、人の命にはそうされるに足るだけの、重さがあるから。そうであってくれなければ、ますます世界は息苦しいものになっていくばかりだから。
さわやかな音楽に反してかなりモヤモヤと考えさせられるし、多分モヤモヤさせるように作っているストーリーだとは思うので、単純に感動するからみんな見てねというオススメのしかたはできない映画ではある。
でも、死んでしまったら罪をつぐなうともできないし、やり直すこともできない。どんなに苦しくても生きていることには何かしらの意味はある、と感じさせるラストだったと思う。