SNSやブログなどを見て、一方的に日常生活を知っている他人のことを思い出していた。わたしはその人のやけに細かいところを知っているが、向こうはわたしの存在すら知らない。むらさきのスカートの女が「わたし」にとって常にむらさきのスカートであるように、外見のイメージはアイコンが纏っている服や色で固定されている。
むらさきのスカートの女はいつもむらさきのスカートであるわけではなさそうなのに、外見の描写が部分的だ。断片的に公開される情報。知っているだれかに似ているようでいて、しかしだれでもない他人。
その人がひとりですごしている様子をみつけて目を惹かれ、引き寄せられるように追いかけたくなる。存在感の希薄なわたしに目を留める人なんていないから、目立っているむらさきのスカートの女を追うのはかんたんだ。奇人だと思っていたのに、意外にも社会性のある一面を見つけて拍子抜けしたりすることも。逆に、その人自身がもしかするとだれにも知られたくないかもしれない一面を知ってしまうこともある。
じっと観察していると、そういうことがある。
不均衡な関心の強さに、思い知らされる自分自身の孤独感。
やっぱりなんだか覚えがある、と思う。
作中「わたし」=黄色いスカートの女が、自分自身に目を向けて描写をすることはない。それなのに、あたかもその輪郭の外側だけを慎重になぞっているかのように、黄色いスカートの女の不気味で切実な欲望が浮かび上がってくる。
「わたし」は、むらさきのスカートの女と友だちになりたい。
黄色いカーディガンの女の執着心ってそりゃ普通に考えると異常なのだけど、しかし人と友だちになるという状態が非常事態となる人間にとっては、会って直接話すのもストーキングも、どちらも相手のことを知る行為だし相手への興味によって時間を使う行為であることには変わりないな、とも思う。
もちろんフィクションだから言える話なんだけれども。
後半に収録された、著者の芥川賞受賞記念エッセイも良い。このひと、作家によくある「自分には謙虚がふさわしいと考えている、それは本当にそう考えている、そのため謙虚にしている」ではなくて、「本当に謙虚」なのかもしれないな……と、思った。
シンプルでなんでもない文章なのににやにや笑いながら読んでしまうくらいおかしい。こういうさっぱりとしたシンプルな文章に対してわたしは好みがはっきりとあるが、今村さんの文章はかなり楽しいと感じる。
そして今村さんがむらさきのスカートの女で、わたしが黄色いカーディガンの女だという錯覚におちいりそうになる。
読み終わって表紙絵を見たんだけどスカートの色は紫じゃないんだな。なのに確かに小説の中のむらさきのスカートの女のことを思い出すと、むらさき色のスカートというよりは目がチカチカするような感覚の方が近しく、確かにこの水玉のスカートのほうが印象としては「ある」ような気がしてしまう。水玉って可愛らしくてシンプルなモチーフなんだけれど不気味でもある、というところも含めてこの本にぴったりな絵だな………