耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

2020年8月の本と映画

 

今月のようす〜本がつまらなくなった日

仕事で携わっているプロジェクトが佳境に入り、息継ぎのたびにあっぷあっぷしながら乗り越えた8月。7月下旬~8月初めのあたりは仕事が本当に嫌で嫌でたまらず、夜な夜な自分の職種名に加えて「苦しい」「逃げたい」「不安」とか検索をして現実逃避をしていた。だいたい感情を検索窓に入力して他人の言葉を捜している時点で、問題の本質が直視できていないので解決に向かわないのは当然なのだけれど。

しかし読書をしていても本の中の世界に入り込めず、主人公の悩みとかがどうでもよく思えはじめてきたときには自分が相当まずい状態なのでは?とおもってびびった。いつだって苦しさを相対化してくれる彩瀬まるさんの本に切り替えてからは大丈夫になったので(本当にこの本には気持ちを救われた)、単にそのとき読みかけていた本のタイミングが悪かっただけだと思うけれど。

8月後半からは急に元気になったので、その本も9月には読み終わりそうです。

 

彩瀬まる『くちなし』 (文春文庫) 
くちなし (文春文庫)

くちなし (文春文庫)

 

 人の姿をしているが、人とはすこし違った常識や生態をもつ世界のお話。それなのに自分たちの苦しみや愛、情けや業を、その姿に重ねて見いだしてしまう。ちょうど日常に対してすこし息苦しい思いをしていたときに手に取って、そこにあるテーマはわたしの悩みとは直接関係のないことだったのに、読んでいて心が慰められた。ごくふつうの名もなき人でも、誰しもにその人なりの苦しさがあると感じさせられるからかもしれない。

読了日:08月02日


江國香織『なかなか暮れない夏の夕暮れ』 (ハルキ文庫)
なかなか暮れない夏の夕暮れ (ハルキ文庫)

なかなか暮れない夏の夕暮れ (ハルキ文庫)

 

この本の中の人物は、本を読んでいる。生活の中で、息をするように、断続的に。そういう読み方をしているとき、自分の生活と本の中の出来事のどちらが本当にあったことかなどはどうでもよくなり、生活を続けることも本を読むことも自分の中では等価になっている。そういう人の生活と読書とを書いた小説を、わたしもまた読んでいる、という仕掛けがおもしろい。
"本を読んでいるとき、そこにいない人になる"という言い回しは江國香織の他の本にも出てきて好きだったのでよく覚えている。でもこの小説においては、そのことを決して好ましくは感じていない親しい他人 の存在が、心をちくりと痛ませる。それでいて、わたしに読むことの楽しさを手放させはしない。

読了日:08月09日

 

梨木香歩『海うそ』 (岩波現代文庫
海うそ (岩波現代文庫)

海うそ (岩波現代文庫)

 

 列島南方の島に滞在し、フィールドワークを行う人文地理学者の秋野。いつの時代にも人が生きた場所には喪失の痕跡がある。時は昭和十年、明治に起きた廃仏毀釈の記憶も生々しく、人の信仰、精神の拠り所が破壊された事跡を悼む。まだ人と自然とが共生する島の自然を旅するうちに、秋野自身の内部に抱える空隙と、人智を超えた、その「場」に息づく闇が共鳴していく。
だがその道行きを綴った物語にじっとりとした苦悩がなく、ただそこにあるものをあるがままに受け止めようとする姿勢には、筆者のエッセイや過去作品にも通ずるものを感じる。
後半は 五十年の後を描く。年を取り、戦争を通った秋野がまたいくつもの喪失の経験を重ねているのが痛ましい。けれど、その時間の積み重ねの果て、その人生があったからこそ辿り着けた新たな発見に、静かな感動がこみあげる。「知」への探究心は孤独を救い、自分自身の人生を再発見させる、ということを思った。

読了日:08月16日

 
インセプション

今月は3冊だけなので、映画だけど追加。今まで見た中でトップ3に入る好きな映画(そんなにたくさん見ているわけじゃないけど)、インセプションがなんとIMAXリバイバル上映とのことでよろこんで観てきた。ビル6階分の高さがあるという巨大なスクリーンと大音量で好きな映画を観られ、没入感は最高でただただ幸せだった。シアター内は完璧な防音なので足を踏み入れた瞬間に外界の雑音が吸い込まれるように消え、映画が始まるまでの時間を水中のような静寂に包まれて過ごせるのも良い。非日常を味わいに来たという感じがするから。

インセプション (字幕版)

インセプション (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

以下、めっちゃネタバレというか観たことのある方にしか分からないことを書いているので未見の方は読まないでくださいね。それにしてもインセプションは面白い。観たことがあるので設定についていけなくなる不安はなく、途中で何回か「いやーほんまこれおもろいなー」って噛み締めてニヤニヤする時間があったくらい。

終わってから夫とふたりで、映画館の横にある万博公園の建物の中をぐるぐる歩き回りながら「あの結末は夢の中か否か」という話をした。他人と脳を共有し、夢の中に入り込めるというシステムを利用してビジネスを行っている人たちのインポッシブルなミッションと、精神世界に潜るからこそ浮き彫りになる内面の苦悩を描いたこの映画は、いわゆるオープン・エンディングで、ラストのハッピーエンドなシーンが夢なのか現実なのか明示されないままに終わる。

以前観たときは素直に現実だと受け取っていたし、問いを投げかけたいというよりはラストシーンとしての美しさを取るためにあの終わり方になったとは今でも思っている。でも今回、そもそもこの映画全体における「現実」と認識してた階層こそが夢の中なのでは?ということを思ってしまった。ロバート・フィッシャー(キリアン・マーフィー)がアイデアを植え付けられるビジネス上のストーリーに「父と子」の関係性が深く関わっていること、一方でコブ(レオナルド・ディカプリオ)のプロジェクト発足にコブ自身の父親(マイケル・ケイン)の存在がキーになっていることさえも深読みしてしまう。つまり「現実」で父の力を借りてチームを発足した時点から、それは願望混じりの夢なのではないか? 実はコブ自身も父親との関係に何か問題を抱えていたのでは? だから、登場する父親の態度は、常に自分にとって心地よい言動しか示さない。ターゲットのロバートは、最終的に自分の父の生き方とは違う自分の道を進もうと決意し、ミッションは成功。それがコブの「見たかった」夢のストーリーなのでは?

そもそも、亡くなった妻のモルと夢の中を共有していたのはなぜ? ということもある。結婚していれば現実の中でいくらでも相手と生活を築き上げることができるのに、なぜわざわざ夢の中へ行く必要があったのか? 何か現実の結婚生活に直視し難い何かがあったのでは? それとも単に相手を愛するがゆえにお互いのことを何もかもを知りたい、って願望だったのかなあ……。夢の中があまりに刺激的だから、抜け出せなくなったというだけのこと?

ああーでも、コブと父親の関係に問題があればその下の階層でも父がいっぱい出てきちゃっていたはずなのでそれはないか。とにかくこういう解釈の余地があるというのがかなりおもしろい。というか大のおとなが夢か現実かだのっていうことを真剣に話す状況を生みだしてくれるところが大好きだ。「現実」とか言ってるけど、そもそもフィクションの中の「現実」の話なんだから。大体、わたしたちが今過ごしてるこの世界は現実なんですか?