耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

ミュージカル〈ミス・サイゴン〉感想

観るたびにのどの奥に大きな塊がつかえたようになる作品だ。

冒頭、幕の向こうに透けて見える雑踏の中で呆然と立ちつくす白い服のキム。不安でいっぱいになりながらこの得体の知れない「世界」というものにたった一人、踏み出していかなければならなくなった少女の姿を見た瞬間、一気に物語の中に引き込まれる。

親を殺し故郷を焼いた敵国の兵士と恋に落ちるキムの行動は一見矛盾をはらんでいるようでもあり、舞台の急展開の中で観客はあやうく置いてけぼりになりかねないと思うのだが、スハさんのキムは一本芯が通っていて、一度決めたら動かないような意志の強さというか、思い込みの強い感じがあって非常に説得力があった。

戦後、彼女をようやく見つけたベトコンのトゥイに対しても同じだ。トゥイはキムの目を覗き込んだとき、もう絶対に彼女の気持ちが自分に向くことはないと悟ったのだろう。だからこそ目を逸らし、部下に命じてキムたちを縛らせるという行動に彼の精神的弱さを感じる。力では優位に立っているはずのトゥイが、どうしようもなく哀れでならなかった。
結局ぎりぎりのところでキムを殺すことはできなかった彼は、キムも自分を撃てないと信じたかったのかもしれない。自分にできなかったことが、「自分と同族」であるキムにもできるはずはないと。トゥイにとってみればキムは「自分と同じ人間」で、タムはキムの産んだ子であっても「憎い敵の子」だった。でも、キムはベトナム人である前に「母」になっていたから、あのとき、タムに刃を向けたトゥイを撃つより他になかった。タムを示したキムを見るトゥイの顔が、得体の知れないものを見るときの恐怖にも近い表情と感じたのは、13歳のときの心のままにひたすら愛し続けていたはずのキムが、一人で先に別の人間になってしまったことへの驚愕だったのかもしれないと思う。

ストーリーの重さを救うかのように美しい曲目が揃ったミス・サイゴンだが、なかでも最も美しいと私が思っているのが婚礼の曲だ。愛にあふれる主演二人がまだここでは微笑ましく、またその後の展開を知っているからこそ切なく思える一方で、中野さんのジジの表情、キムを一点の曇りもなく祝っているというふうにはとても見えない演技が新鮮だった。嫉妬や羨望をはらむ中で、祝福する気持ちも確かにある、という複雑な表情。羨ましいのも真実、でも祝っていることもまた真実、という相反する心の揺れに共感する。戦争や天涯孤独な身の上を非現実と感じる私にとっては、婚礼を祝う友人の顔や、売春を仕事とする女たちの、髪や下着を整える日常的なしぐさが、彼女らの心情を身近に感じるよすがとなっていた。


対して二幕では、ジョンが急に正義漢ぶってブイドイを歌い上げたり、あんなにキムにキスしまくって愛を囁いていたクリスが、(いくら戦後帰国してから苦悩するシーンが飛ばされているとはいえ)エレンという新たな伴侶を得、ベトナムを過去として清算し心の整理を済ませていたりする。キムに感情移入しながら観ている人間としてはアメリカ人サイドの行動を身勝手に感じ、モヤモヤさせられるシーンばかりである。その最たるものが、クリスとエレンがキムの子に金銭的援助をすることを思いつき、アメリカンスクールに入れようだのと言って二人で勝手に盛り上がっているシーンで、苛立たずにはいられない。

でも、何度かこの演目を見ていると、それはそれでいいのだと思うようになってきた。クリスが辛い時期を乗り越えるのにエレンの力を必要としたことも、エレンがけなげな思いでクリスを愛していることも、彼ら自身にとっては他者の立ち入る隙のないリアルな事実。そしてその二人が彼ら自身でしか出せない答えにたどり着いたことに、観ている私が共感する必要はない。彼らに対してモヤモヤする気持ちごと、彼らの行動を受け止める心境になっていた。

ジョンはジョンで、クリスの先輩格であるし、舞台映えのする役者が演じることもあって、無意識に完璧さというか、正義のようなものを期待しがちだ。でもそうではなく、ジョンだって過去の自分の行動を悔やんでいるからこそ、戦後自分にできることを試みているのかもしれないのだ。そう気づいたのは、クリスに妻がいることをキムに言えずにうろたえるジョンの姿を見たからだった。もしあのときこうしていたら…ということは、この話ではいくらでも考えられるけど、全てを予見して完璧な行動を取れないのが人間というもの。ベトナムの娼館でチャラチャラしていたジョンと、ブイドイの現実に向き合おうとするジョンが同じ人間だと思うから偽善に見えるけれど、その間にも彼には彼だけの苦悩と時間の経過と決意があったはずである。


この作品からもたらされる最も大きな胸のつかえは結末に関するもので、キムはああするしかなかったのか、もっと別の選択をすることはできなかったのか…というのはこの演目を観た人全員の頭に浮かぶのではないかと思うのだが、考えてもやっぱり正解はどこにも見つからない。子は母と一緒にいさえすれば幸せなのかとか、逆にアメリカへ行きさえすれば本当に未来は開けるのかとか、どこでどうなっても幸せになれたかもしれない一方で、不幸になる可能性もある。それはわからないことだ。お金をもらうことで納得することにして子どものために我慢して成人するまで育てる、というのが思いつく限りで一番ましな考えなのかもしれないけれど、仮にそうした場合も、キムに不幸を強いることは変わりない。

生きていればいつかは別の幸せがあるよと、言いたくなるのはそれは生きている人間が考えることだからであって、キムが死を選んだのは子どものためでもあったことながら、あるいは3年間、たったひとつの光明に縋るように生きてきた心の支えがふっつりと消えてしまったことで、彼女の中の何かが途切れてしまったのかもしれなかった。まるで蝋燭の火が吹き消されるように。「私は最後の仕事をするわ」と言い残してタムの手を引くキムの顔をみていると、どうもそんなふうに思えて仕方なかった。