耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

たばこぎらい

いまでは私は自他ともに認める大の嫌煙家なのだが、一時期たばこに憧れていたことがあった。大学時代、ちょっと悪そうなかんじの人に惹かれていたときのことである。

当時の私といえば、地味な自分を認めたくなくておしゃれとかを一生懸命がんばっていたころである。若者のおしゃれは、大体が持って生まれた素材と10代前半あたりからのセンスの蓄積がものをいう。どちらも持っていないとはいえ、まだよく自分が見えていなかった私は、めくらめっぽうに「なんか憧れるけど似合わない」服装をしていた。具体的にはクールギャル系である。だがその一方で自分らしさを捨てたくないとも思っていたため、いまいち振り切れておらず中途半端だった。そもそもマインドネスがギャルではないのだから仕方ない。今にして思えばだささと恥の極みなのだが、若いころに恥ずかしい思いをしていてよかったとも今では思う。

そのころサークル関係の付き合いで、いわゆるクラブにも一、二度行った(といっても遊びに行ったわけではないのだが)。酒も飲めないしもともと話し声も小さい、大勢でわいわい騒ぐのがそもそも好きでない私には、重低音で最先端のイケてる音楽が鳴り響き続ける場の雰囲気にはまったくなじめなかった。そればかりか、友人に声をかけるのにもやたらと声を張り上げねばならず、見知らぬ他人に話しかけられる恐怖におびえる緊張状態が続き、思いがけないエネルギーを消費し疲れるばかりで楽しくもなんともなかった。

しかしその一方で、自分と真反対の世界というのは強烈な引力がある。クラブで私は衝撃的な光景と出会った。私が漠然とあこがれていたクールなギャルが、たばこを吸う姿がめちゃくちゃかっこよかったのである。彼女たちはなんの気負いもてらいもなく、ナチュラルにたばこに手を伸ばしているように見えた。薄暗い照明の中で酒のカップとたばこを手に身体を揺らし、初対面だろうが旧知の仲だろうが関係なくあけっぴろげな笑顔で応対する彼女らはだれより人生を謳歌しているように思えた。その上彼女たちは、壁にはりついて顔をひきつらせている私のような人間にも思いやり深く接してくれる人格者であり、だれが相手でも恐れを知らないかのように対等に言葉を交わす姿には強烈な憧れを抱いた。だがその憧れの本質的な部分に私は一生かかっても近づくことはできないだろうということも、同時に痛いほど感じた。そこで真似できるのは、表面的なファッションや嗜好しかないと悟った。

普段おとなしくて純粋なように見られる私がたばこを吸っていたら、周囲の人は仰天して腰を抜かすだろう。そういう意外性を身に着けた自分になるという考えは私をわくわくさせた。そのように、たばこを吸ってみるというアイデアにはしばらくの間惹きつけられていたが、結局は健康を害する方がこわくなり、ためしに吸ってみることすらしないまま今に至る。

決定的にたばこが嫌いになったのはクラブ初体験をした半年後くらいに、たばこを吸うひとを好きになったからだ。バイト先で出会ったその人こそ、クラブにしょっちゅう行っていそうな、ちょっと悪い雰囲気を漂わせている男だった。私が決定的にたばこを吸うのをあきらめたのは、その彼がたばこを吸う女は嫌いだと言ったから……などではない。その男の口臭が猛烈にきつかったからだ。

ヘビースモーカーの口臭を間近で嗅いだことがあるだろうか。それはただでさえかなりきついものだ。宇多田ヒカルは「最後のキスは煙草のFlavorがした」と15にして歌い世の大人たちを仰天させたが、スモーカーとキスをするくらいなら私は一生大人になんかならなくていい。しかもコーヒーなど飲んだ後は最悪だ。ごく控えめに言って、吐き気をもよおす刺激臭。若くてかっこいい男性にはたばこを吸う人の割合が高いように思うので、たばこを吸っているというだけで男前を恋愛対象から外すのは正直もったいないと自分でも思うのだが、顔を50センチ以上近づけないままで恋人同士になるなどという芸当ができない以上はしかたない。たばこのにおいに平気でいられる人はうらやましい。

自分もたばこを吸うようになれば他人のにおいも平気になるのだろうか? だが私はとても自分の口をあのにおいにする勇気はない。たばこなんか吸わなくても最初から自分の顔周りには自信がないというのに、においの演出まで付け加えて不快さを周囲に振りまくほど、破天荒な生き方は選べない。