耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

梅芸エリザベートの思い出(2)

 

 

9月25日日曜日 昼
キャスト
エリザベート:花總まりさん
トート:城田優さん
ゾフィー:香寿たつきさん
ルキーニ:成河さん


花總さんのエリザベートが好きだ。
プロローグの合唱が収束した後、彼女が姿を現した瞬間にハプスブルクの亡霊たちが声を上げておののく場面があるが、彼女は出てきた瞬間から光り輝いている。にこにこと無邪気な笑顔は、まだそこに何の精神的苦悩も時間的経過も刻まれる前の、「無垢な少女」の記号。だから観ているわたしも、娘にぞっこんなシシィのパパにつられるように頬をゆるめてしまう。既にこの〈エリザベート〉の物語をそらんじて、彼女がこの後どんな苦悩にさらされるのかを承知しているのにも関わらず。

この日の「私だけに」は、前回観たときよりも力強さを増していた。マイクがなかったとしても、聴いているものの胸に直接感情が訴えかけてくるかのようだ。這ってでも歯を食いしばってでも自分を通して生き抜いてやるという、意思の強さと誇り高さの滲んだ最後の高音。前回博多で観たときはここまでの迫力ではなかったと思う。あるいは、今回私の座る位置がセンター寄りだったから、そういう聴こえ方をしたのだろうか。
昨日観た蘭乃さんのシシィが、二幕に至ってもどこかずっと夢見る少女の自分を残しているイメージだったとするなら、花總さんのエリザベートはこの歌を境に少女時代が終わっていることがはっきりと分かる。

花總さんのエリザベートは、トートをはねのけ振り払う動作にも迷いがない。死の誘惑への葛藤はほとんどないかのようだ。観ている私は、それが芝居の段取りだということも忘れてしまう。ほとんど反射的に、本能的にそうしているかのように、花總さんのエリザベートはトートを拒絶する。
特に「私が踊る時」の、艶然と微笑みを浮かべながらつんと顎を上げ、肩をそびやかしてひざまずくトートの前を素通りするシーンはたまらない。人生のどの瞬間よりも強く美しく輝いて、自分の勝利に酔う皇后。
一幕の「エリザベート泣かないで」では押し返されて憮然としていたトートだったが、二幕の「最後のチャンス」では去り際にかすかに笑みを浮かべていた。そもそもの始まりは、シシィが少女のとき、その無垢な美しさにトートが恋に落ちたこと(この日の公演では「愛と死の輪舞」でシシィにひとめぼれするトートの説得力がものすごく、理想的ロマンスの具現化に私は歓喜した)。だけれど、やがて美しく芯の強い女性に成長した姿をも愛するようになったのではないだろうかと思うことができ、私は幸福だった。

自信と生命力に満ち溢れたエリザベート。しかし、その姿は生きているからこそ在るものなのだ。
花の咲き誇る時は短く、いつのまにか色褪せて、気づけば花弁が枯れ始めているように、自身の生き様への疑問符が少しずつ皇后の心を浸蝕していく。


「僕はママの鏡になりたい」で、珍しく息子と向き合うエリザベート。幼いころからずっと母の愛を求めてきたルドルフが、今すぐにでも駆け寄りたいというかのように、想いを歌いながら片足を半歩ずつ踏み出そうとしては、踏み出せず、また踏み出そうとしては、踏み出せずにいた、いじらしい姿が印象的だった。まるでそこに目には見えない厚い壁があるみたいに。

ルドルフといえば、「ママ、何処なの?」で幼い彼の前に姿を現したトートは友のように語りかけ共感して頷いていたのに、ルドルフの注意が逸れた瞬間に三白眼の恐ろしい表情でルドルフを睨みつけていた。どう料理してやろうかと言わんばかりに口元を撫で、まるで舌なめずりをしているかのようだ。「闇が広がる」でもそう。革命を志すルドルフを励ますのだが、ふと見れば舞台奥から顔をしかめてルドルフを睨みつけていることに気づいてぞっとする。どこまでも憎悪の対象なのだ。

そして野心が破れて逮捕される瞬間、ルドルフがはっとした顔でトートを振り返っていることには、今回初めて気がついた。
幼い頃から友と思い心の支えにしていた存在が、実は自分を憎み陥れる存在だと気がついた。それにも関わらず、いまさらどうしても離れることは叶わない。どんなに懸命に抗ってもトートに引き寄せられてしまう「マイヤーリンク」は、見ていて申し訳ないほどに背徳的な興奮を煽られた。

その後、ルドルフの墓場で失意の底に沈むエリザベートを写真に撮り狂喜する成河さんのルキーニは、何度見ようとも心底憎たらしさが湧いてくる。(彼のルキーニのそんなところがどうしても好きなのだから、どうしようもない。)
キッチュ(リプライズ)」でルキーニが人間の厭らしさをさんざん暴き立てた後に「夜のボート」、そして「悪夢」のオペラのシーンへ導いていく流れは、わかっていても精神的にきついものがある。鏡に映った夜の湖の背景が美しければ美しいほどに、人の世の悲劇は際立つ。水辺のシーンを経て、フランツは地獄の苦しみへ、エリザベートは天上の解放へと導かれるのだから、このあたりのシーンは最後の審判臨死体験のようなものを念頭に置いているのかもしれない。

ようやく辿りついたフィナーレで、エリザベートは自由を得た晴れ晴れとした表情を見せ、トートはいかにも嬉しそうに満面の笑みを浮かべていた。今日こそはハッピーエンドなのだと信じたのに、彼女に抱きしめられた瞬間トートの顔に戸惑いが浮かぶのがありありとわかって堪らない。皇后のキスを受け止めながらも、何かを探るかのようにトートが目を開けたままシシィの顔を凝視しているのは憐れだった。
暗転してから映画のように暗闇にエンドロールが流れていたら、余韻に浸って泣いていたかもしれない。


エリザベートを愛したトートの想いが叶うことはなかったのでした、というエンディングの印象は昨日と変わらなかったけれど、私の中に浮かぶ意味は少し違ったように思える。

結局のところトートが見ていたのも、エリザベートが表面的に演じていた「強い皇后」「美しさを保つエリザベート」の影だったのかもしれない。彼女が他者に見せる自分にいつも被せていた仮面であり、つまりはエリザベートが他者に見られているイメージにすぎないもの。
一方、その裏側にあった「エゴイスト」のシシィの部分を知り、観客に示し続けるのはルキーニだ。

そう考えるとこの物語は、エリザベートという女性が、自分の中に持つ表裏の二面性の間で葛藤しながらも生涯を終えたというふうにも読めるのではないだろうか。
「エーヤン」でトートとルキーニが背中合わせに歌うシーンがあるが、ここで小柄な(成河さんの)ルキーニと長身の(城田さんの)トートは、まさに二面的な存在であることがありありと感じられる。
となればトートとルキーニという人物像は、エリザベートが自身に対して抱く正義感と嫌悪感、公的イメージと私生活の実態、エゴと内省といった二つの相反する自意識の具象化だ。

わかっていてもどうしようもできない自分の嫌な部分、というのはだれにでもあると思う。多くの人はそんな自分の一面となんとかうまく付き合っていく。
でもエリザベートは自意識の強い人だったから、自分ではどうしようもできない自分に苦しみ、やがてはその嫌悪が自分を殺してしまう。
少女時代に思い描いた"ありたかった自分"、つまり理想の象徴である美しいトートは、"本当のエリザベート"の影を追いながらも手に入れられることはないまま、人生は幕を閉じてしまうのである。

---

私はどうしてこんなにこのミュージカルに惹かれるのだろうかと考えたとき、もちろん楽曲や見た目の華やかさもあるのだが、自分自身の内面と向き合い生きるエリザベートの姿を物語の中に見出しているからなのだと思う。

一つのお話を心の中で長い時間抱え続け、いろいろな角度から考える時間は、精神の充実と感情の安定を与え、何より非現実世界に浸る楽しみをもたらしてくれた。

今年はもう〈エリザベート〉を観に行くことはないつもりだから、この思い出を書いてしまうともうその時間が終わってしまう気がして、ずっと書くことをためらっていた。しかし書かずにいる時間に記憶がどんどん零れ落ちてしまうことのほうが怖くなり、いたたまれずに書いてしまった。
でもほんとうは舞台で観て感じたことは文字に残さないほうが美しいままでいられるのではないかとは少し思う。

とはいえ、12月にはDVDも発売されることであるし、実は宝塚版20周年アニバーサリー盤のブルーレイを購入したものが届いたので、なんとか書く行為を通して気持ちを整理し、次のフェーズへ進むことにしたい。