耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

国立西洋美術館のカラヴァッジョ展を見た個人的感想

連休を利用して国立西洋美術館で開催中の「カラヴァッジョ展」へ出かけた。

今回の展覧会で世界初公開となる《マグダラのマリア》をはじめ、《エマオの晩餐》《女占い師》《果物籠を持つ少年》《バッカス》《メデューサ》等カラヴァッジョの代表作とされる有名作品を中心に11点の真筆が展示されている。メインとなるカラヴァッジョの作品のほか、同じ主題を扱ったものや、影響を受けた画家の作品群が展示されている構成は分かりやすく、非常に楽しめた展覧会だった。




今回の目玉はなんといっても《法悦のマグダラのマリア》だろう。近年発見されたばかりのこの作品が真筆であるか否かは私の知るところではないが、実際に見ればその美しさに魅了される。


1606年《法悦のマグダラのマリア》個人蔵

マグダラのマリアという主題はそもそも西洋の美人画のような扱いであるらしいけれど、この絵の美しさはマリアの女としての美しさからくるものではないはずだ。のけぞるようにした首もとから胸元とはだけた肩は、本来そこに見出されるはずの女性性を否定するかのように、衣服との間に濃い陰影をつくりだしている。”目に見えるもの”に対する現世的な彼女の関心は完全に断たれているようだ。唇は色を失い、わずかに開かれた上唇がわずかなグラデーションを描くように色づいて、彼女の精神世界への陶酔を表している。《果物籠を持つ少年》でわずかに開いた口が、少年のなまめかしさを強調していたのとは対照的。薄く開かれた左目からは一筋の涙が流れ、鮮烈な感情表現に心打たれる。視線の先に誘導されて画面左上を見上げれば、天上の光を象徴する丸い光源が描かれている。実物はこの背景に薄く十字が描きこまれているが、作品の完成度からいえばこの十字は蛇足ではないか?と思えてしまうほどだ。


1593-94年《果物籠を持つ少年》ローマ、ボルゲーゼ美術館

先日のNHK日曜美術館」で、カラヴァッジョの後期の作品はとりわけ瞑想的な特徴が強くなっていったと解説があった。この展覧会で作品をまとめて見ていると、確かにある時を境に作品の雰囲気が変化しているのがわかる。画家自身が死ぬまで自分で持っていたという《マグダラのマリア》もそのひとつだろう。美女を描く口実として用いられることの多かったマグダラのマリアという主題に、女性の内面世界の充実という表現の切り口をもたらしたカラヴァッジョの影響が、のちのラ・トゥールにも繋がっている。この展覧会でラ・トゥールに帰属する作品は東京富士美術館所蔵の《煙草を吸う男》一点のみの出品だったけれど、深い沈思黙考に引き込むようなラ・トゥール作の《マグダラのマリア》作品群にも私は非常に惹かれる。


1638-1640年 ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《悔悛するマグダラのマリア》ロサンゼルス郡立美術館所蔵




カラヴァッジョの作風の変化について、強く実感したのは《エマオの晩餐》だったかもしれない。1601年と1606年の二度、カラヴァッジョはこの主題で制作しているが、今回出品されているのは後者だ。以前ロンドンのナショナル・ギャラリーを訪れた際に1601年のものを観たのだけれど、中央にいるキリストの表情があきらかに違う。端的に言えば後の作品は、暗い。


1601年《エマオの晩餐》ロンドン、ナショナル・ギャラリー所蔵


1606年《エマオの晩餐》ミラノ、ブレラ絵画館所蔵

「エマオの晩餐」という聖書の場面は、キリストが復活後に弟子の前に正体を現すというストーリーである。いわく、キリストの墓から遺体が消えていたことについて論じていた弟子ふたりのもとに、当のイエスがあらわれたが、ふたりは気がつかないまま、エマオという村で食事に招いた。イエスがパンを割って弟子に渡したその瞬間、その人がイエスだと分かったが、姿は見えなくなった(ルカ24章13-35節)。

カラヴァッジョの絵では、晩餐の場でキリストの正体が明らかになった瞬間を劇的に捉えている。1601年の作品では、弟子もキリストも大きく手をのばし、まるで絵の中から飛び出してくるかのような迫真性が与えられている。テーブルの上の果物籠もこぼれ落ちんばかりだ。右側の弟子の胸元の白い楕円のもの(なんなのかは不明。おしゃれ?)と、キリストの左側に立っている給仕の頭の帽子が呼応するかのような構図のバランスも面白い。脂の乗り切っていた画家が、自身の才能と技術を誇り描き切るさまが見えるような気がする。

一方、1606年の作品ではどうか。大仰な身振りはない。絵から声が聞こえるとすれば、落ち着いたトーンのひそやかな声色なのだろう。キリストがみずから何事かを示すように右手をかざしているのは前の作品と同様だが、より自然で控えめな動作となっている。目は伏せられ、その表情には悲劇的な運命への苦悩のような、世の無常への諦念のような、複雑な陰影が刻まれている。そして画面右側、前の作品にはいなかった老婆の存在。全員がキリストを見つめるなかで、ただひとり目を伏せている老婆はどこか世をはかなんだ表情にも見える。キリストの心理に寄り添うかのように。

この1606年の《エマオの晩餐》について、第一印象は「ロンドンの絵のほうが好きだ」と思った。けれどじっくり見ていくにつれ、より深く闇と向き合い、その絵の中の世界に深く引き込まれていくのは後に描かれた《エマオの晩餐》だった。

メデューサ》や《トカゲに噛まれる少年》のように、瞬間的な表情を絵の中に封じ込めるのに卓越した技術を誇っていたカラヴァッジョだから、内面に苦悩を抱える人間の表情もまた真に迫っている。 画家が何を狙ってこのような表現を選んだのかは誰も知る由はない。でも、人類全体の罪を背負って死の世界を見たキリストにすら、このような表情をさせるこの世というものへの絶望、救いようのなさ、というものを、考えてしまうのだ。


1596-97年《トカゲに噛まれる少年》フィレンツェ、ロベルト・ロンギ美術史財団所蔵