耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

手帳病は治るのか。

毎年この時期になると手帳病の症状を発症する人は多いと思うが、私もその一人である。
手帳病とは、いま使っている手帳(スケジュール帳)の白紙ページがまだたくさん残っているのに、来年使う手帳のことが気になって気になって仕方なくなってしまう病のことだ。
健康な人は年末が近づくにつれ、書店やらロフトの文房具売り場に手帳が並んでいるのを見て初めて「あ、来年の手帳まだ買ってなかった!」とつぶやいたりするが、手帳病患者はなんと8月や9月ごろから「そろそろかな…まだかな…」とそわそわし始める。

私の手帳病は軽度のもので、大学を卒業して社会人になるとともにほぼ治ったと思っている。
大学時代には手帳の週ページに細かい字で毎日毎日日記を書きつらね、目盛りに合わせて24時間の行動を記録し(いまでいうライフログである)、一日中ごろごろしていた日にまで睡眠時間や本やゲームの感想を記録し、たまに出かけたかと思うとさらにその当時のめりこんでいた若手芸人のお笑いライブ通いのレポートまで事細かに記していた。それでいて勉強の内容や健康管理を手帳で行った痕跡はほとんど残っていないから、我ながら相当だらけた学生生活だったと思われる。

読むに堪えないのは初めて恋人ができた時期の日記だ。恥ずかしすぎる。大量のハートマーク、「しあわせ」とか「うれしかった」「たのしかった」とかいう頭の悪そうなコメントの乱舞。そんなことは書き残さなくてよろしいと思うことまで濃いピンクのペンで堂々と書いてある。その人と付き合っていたことそのものは、自分の人生の大切な一部であることは確かだ。しかし、彼と円熟した関係性を築いてからは、日記に書き残すよりも相手との対話ですべてが完結するようになった。そのため、結果的に紙の上に残っているのは付き合いたての浮かれポンチな脳内花畑女の日記のみとなってしまった。まったく痛々しいことこの上ない。

恋愛事の記録はある程度の客観性と表現力がなければ、当事者以外には興ざめなことは言うまでもない。似たような事象は女どうしの恋愛話などでもありがちで、オチのないのろけや落としどころのないお悩み相談をだらだら垂れ流していると、最初は機嫌よく聞いてくれた友人でもうんざりしてしまうのと同様である。自分でもこの時期に書いていた手帳は燃やして捨てたいくらいなのだが、とはいえ他の部分は思い出なのでとっておきたい。軽いジレンマに陥っている。

社会人になってからは、そのように日記をちまちま書くこともなくなった。というより、毎日会社へ行って人と会うようになったので、手帳に書くことがなくなってしまった。それまで、私にとって手帳(日記)は自分の脳内にある物事を咀嚼するための場所だったからだ。好きで付き合っているわけでもない会社の人間とのコミュニケーション内容を、私の大切な日記に残したくもないと私は思った。それまでウィークリータイプを買っていた手帳も、日記を書かなくなったので薄っぺらいマンスリータイプを買うようになった。それですら、休日と終業後のわずかな予定しか書かないせいで、空白が目立つようになっていった。

日記を書かなくなった理由には、スマホの登場の影響も大きい。evernoteを使うようになって、残しておきたい出来事や感情、あるいは書きながら考えごとをしたいときには、evernoteに打ち込むようになった。Posteverというアプリを使えば、起動してすぐに書きはじめられるし、日付ごとに書いたものが時系列で自動的にまとまって残ってくれる。フリック入力は手書きよりも速い。iPhoneは瞬く間に親しい友のようになり、紙の手帳はほとんど無用の長物となった。

過去、スケジュール管理よりも日記として手帳を用いる側面が大きかった私は、手帳をほとんど家に置きっぱなしにしていた。手帳病だった学生時代にさえも。こうした習慣があったから、外にいる時間をコントロールするのに手帳を使うことができなかったのだ。

しかし、今年の私は一味違う。来年からは手帳を職場で使用してみようかと考えているのだ。

今年あたりからようやく仕事に向き合うことが楽しくなってきたと同時に、こなすべきタスク量が増えてきた。それまでずっと仕事のスケジュールはExcelで管理してきたが、会議や自分の頭を整理する場面では、無意識に手書きを併用するようになっていることに気がついた。書いたものを分散させてメモを失くすリスクを抱えるよりは、手帳にまとめて書くようにした方がいいという考えにようやく行き当たった。

かつて手帳病だったころのように、最近インターネットで他人の手帳活用法の記事を見まくっている。すごく楽しい。というか、忘れかけていたが、他人の手帳を覗くのは他人のバッグの中身を覗くのと同様、窃視的な快楽をはらむものだったのだ。自分の手帳に活かすという以上に、他人の思考構造を盗み見るかのような喜びに身を浸している休日である。