耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

社内バッグへの野望

 今の職場で働き始めてもうすぐまる4年になるが、いまさら社内バッグを持とうか迷い始めている。
 環境の変化があったとかいう理由ではない。職場は定期的に席替えがあるものの、流行りのフリーアドレス制などは全く採用される気配がない。仕事に必要な筆記用具や身の回りのものは机の引き出しに入れっぱなしだ。したがって社内バッグに入れて持ち歩く必要は全くない。

 私がそのバッグに入れたいのは大まかにいってポーチである。具体的には化粧ポーチと生理用品用ポーチ。あと歯磨きセットや消臭スプレーも入れたい。あとハンカチ。あとiPhone。あとお財布。これらを入れた小さいバッグをトイレに行くときなどにいちいち持ち歩きたいという憧れがある。

 憧れとか言ってないでさっさと実行すればいいのではないかと思うのだが、なんだか大げさな気がして恥ずかしく、勇気が出せないでいる。そもそも、これまで仕事中にトイレに行くときはハンカチのみを持って颯爽と席を離れていた。それなのにいきなりカバンとか持ち出したら何事かと思われはしないだろうか。いや、そんなの考えすぎだ。一体誰の視線を気にしているというのか。しかし私の職場で定期的に回ってくる服装マナー向上取組のメールには次のような恐ろしい文言が記載されており、これが脳内に刷り込まれているのかもしれない……「自分が思っているより、他人には見られています」。

 とはいえ、これまでは生理中だけポーチを持ち歩いていたわけだが、これはこれで「ふだんハンカチしか持ってないのに、今日はポーチを持っているとは生理中だな」と見られているような気がしてこれもまた恥ずかしい。となれば本当にハンカチしか必要ないときも常にバッグを持ち歩くようにすれば、いつが月のものにあたっているのかバレなくて済むようになるのではないか。そもそもこのように考えたことが社内バッグへの憧れの第一歩であった。

 しかしそこで私の中にいる別人格が怒り出す。彼女はピンクのスーツを着たフェミニストで、知性の象徴である眼鏡をかけている。往々にして些細なきっかけで私の思考回路に立ちふさがるパワフルな女で、彼女が時たま現れてくれるおかげで、私は自分の生活をジェンダー的な視点で見なおそうとする試みを忘れずにいられる。彼女自身が女性であるためか、少しばかり男性の権利を軽視しがちになるところはいただけないのだが。

 彼女は言う。女性である以上、月に一度は生理がくるのは当然であり、生理中であることがバレたところで恥ずかしがる必要はまったくない、と。堂々とすればいいのである。妊娠すればおめでたいのに月経のときはトイレに行くのもはばかられるなど馬鹿げている。社内バッグなんてせせこましいものは持たなくてよろしい。大体私はすぐにそういう口実にかこつけてモノを買おうとするが、結婚の展望もなく一生ひとりで生きていかなければならないのだから、そういう余計なものにお金を使わず堅実に貯金しなさい。

 最後の発言は明らかに余計だったし私の神経を逆なでしたが、言っていることには一理あると思い、いったんはこの憧れを捨てたのだった。

 それから四年の月日が流れた。私は20代後半になり、夕方にトイレの鏡を見るとギョッとすることが増えた。以前は化粧品の広告でいうところの「一日中くすまない」とか「夜になっても崩れ知らず」といったコピーが一切ピンときていなかったため、化粧直しは申し訳程度にリップを塗りなおすくらいしかしたことがなかった。今ではちょっと考えられないことである。チークとリップが落ちた顔は、くまと口角のくすみが目立ち顔色が悪い。おまけにアイメイクもなぜか落ちやすくなった。気がつけばアイラインかマスカラが涙袋に黒っぽく転写している。目に見えるほどの変化はないつもりでいたが、おそらくまぶたがたるんでいるのだろう。

 困ったことになった。鏡の前で私は途方に暮れた。ハンカチだけを持って颯爽とトイレにくるのが習慣づいていたために、お直し用の化粧品を入れたポーチを持ち歩いていない。そんなものを持っているのは平日の夜にデートの予定が入っているキラキラOLのような女性だけだと思っていたが、次からはトイレにポーチを持ってくるようにしよう。そう決意して私は黒くなった目の下をハンカチでぐいと拭った。

 ところが翌日、化粧ポーチを片手に意気揚々とトイレの鏡を見て驚いた。まったくメイクが崩れていなかったからである。なーんだ、まだいらなかったんじゃん。そう思った数時間後、ハンカチだけを持ってもう一度トイレに来ると、目の下が黒くなっている。

 私はいらだった。化粧は理不尽な社会で日々生き残るために戦う鎧のようなものだと思っていた。なのにここへきて顔までが世の不条理を突きつけてくるとは。

 こうなったらあれしかない。私は再び社内バッグへの憧れを募らせ始めた。身の回りのものを常にまとめ、トイレへ行くときは毎回持ち歩くようにすれば、いつ化粧が落ちるとも知れない顔の皮脂との戦いにもすかさず対応できる。ついでに歯ブラシを持ち歩いていれば突然歯に何かが挟まっていることに気がついてもOKだし、ついでに消臭スプレーなどを持ち歩いていれば突然の腹痛でトイレが臭ってしまったときにも次の人に心の中で謝らなくて良くなるし、ついでに生理用品を常に持ち歩いていれば急に生理になっても安心だし、ついでにiPhoneを持ち歩いていれば平日の午前10時からどうしても行きたい舞台のチケットが発売になっても、こっそり購入手続きをすることができる。

 社内バッグを持つメリットについてここまで並べ立てたところ、さすがに私の中のフェミニストも反対することはなかった。四年間の会社員生活を通し、オフィスのトイレでぶつかる様々な困難を経験してきたのだ。その集大成がフェミニストへのこのプレゼンであった。腕組みをして聴いていたピンクのスーツを着たフェミニストは、いわば私自身とオフィスライフを共にしてきた同士でもある。これまでの小さな悩みが社内バッグを持つことで解消できるのなら、と最後には首を縦に振ってくれた。

 ようやく一安心である。だが休んでいる暇はない。むしろここからが本番だ。なるべく目立たないが、私が持ち歩きたくなるようなバッグの選定に取り掛からねばならない。ピンクのスーツのフェミニストは休暇に入ったが、続いて別の人格を当プロジェクトに投入する必要がある。
 彼女は元ギャルのカリスマショップ店員で、キャラメルブラウンに染めた巻き髪の毛先から足の爪先に至るまで隙なく常に手入れがされている。ミーハーで流されやすいところが玉に瑕だが、洋服や化粧品などの情報を常にネットで仕入れては、私の好みにマッチするものを教えてくれるので頼りになる存在だ。早速彼女を呼び出そうと思ったが、給料日前でお財布が寒いからという理由で来てくれなかった。

 社内バッグを持ち始めるのはまだ先のことになりそうだ。
 
その後の顛末

こんなブログを書いたこともすっかり忘れていたけれど、その後わたしは社内バッグを持つようになる。使っていたのはカシュカシュのナイロンリボンミニトート。このポーチとバッグの中間のようなサイズのミニトートバッグがちょうどよい。

とはいえ、なにしろホワイトっぽいカラーを選んでしまったばっかりにだんだん汚れが目立ちはじめた。次はちがう色を買ってみようかなと思っていたら、なんと2019年ごろからメーカー側がこのサイズのバッグだけ出さなくなってしまったようだ。

悲しんでいたが、2020年のセールでオンラインストアを見ていたら発見した。似たようなサイズ感で、しかもちゃんと口がファスナーで閉まる商品が出ているのを。というわけでここに報告。カラーはシックなバリエーションと柄物が増え、デザインはよりシンプルで持ちやすい雰囲気に。

 

カシュカシュは安価で機能性を追求した商品をたくさん出しているのでなかなか良さそうだ。と、わたしの中にいてすっかりOL生活を満喫しているギャルに教えてあげたい。