耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

東宝ミュージカル「エリザベート」2015のライブ録音CDを聴いた

もともと発売日に購入していたものだが、そのときは確かCHESSのCDを絶賛リピート中だったため、エリザベートは好きな曲だけ飛ばし飛ばしで聴いて満足していた。そういう聴き方をしても十分幸せになれるCDなのである。なんといっても大満足の3枚組。ダブルキャストでの公演のため、Disc1の第一幕、Disc2の第二幕が異なった組み合わせで収録されている。Disc3には、Disc1とDisc2で収録されなかったキャストの「聴きどころ」が収録され、一部を除いて主要キャストほぼ全員の歌唱を聴くことができるような仕組みだ。山崎育三郎の『キッチュ』も聴きたかったのに尾上松也さんしか聴けへんのかー。といちいちショックを受けなくて済むのである。とはいえ、最初このディスク構成をよく理解していなくていちいちショックを受けていたのは私だが。
 
 
ところで私はミュージカル「エリザベート」を観たことがない。2015年に限らず今までに一度もない。それにも関わらず、なぜこのCDを買おうと思ったのかといえば、新妻聖子さんのCDアルバム「MUSICAL MOMENT」に収録されている『私だけに』に非常に感銘を受けたために他ならない。新妻聖子さんがこのアルバムの録音において演じているエリザベートは、強い意志を持ち、自信を取り巻く環境や社会の抑圧を跳ね返さんばかりの強烈なキャラクターだ。シシィが我儘なのではない。自分の人生を自分で決めて何が悪いのだ。社会が、周囲が間違っている。 そう思わせられてしまう説得力は、おそらく新妻さんの歌が、自立した女性の感情表現であるがゆえにある。19世紀、ハプスブルク帝国というミュージカル上の舞台設定を超え、現代日本に生きる私も共感と憧憬の念を抱く女性像を提示する歌唱力には、ひたすら圧倒されるばかりだ。
 
 
そんな歌声が耳に沁みついていたために、東宝エリザベートの『私だけに』を聴いたときの第一印象は違和感でいっぱいだった。しかし、今回通しでCDを聴いてみて納得がいった。ミュージカルの文脈のなかで『私だけに』を歌っているときのエリザベートは、自分の芯を持った大人の女性などではない。彼女はあまりにも幼く、宮廷どころか社会を何も知らない。16歳まで自由奔放に育てられたおてんば娘だったのだから当然だ。「パパみたいに生きたい」それが彼女の人生の最大の指針だった。だがその「パパ」も、結婚生活の面ではその自由な気質ゆえに破綻をきたしている。
 
 
彼女は、フランツと二人で築きたかった家庭像を心に描いていたのだろうか。そうであるならきっとそれは、年長者が力を持ち、様々な人間の利害と思惑が錯綜する、宮廷の中にあるようなものではなかったはずだ。シシィがフランツと惹かれ合い、愛情を抱いていたことは、Disc1(第1幕)で花聡まりさんのエリザベートと田代万里生さんのフランツを聴けばすんなりと理解できる。できるがゆえに、『君の味方だ』『エリザベート(愛のテーマ)』『私だけに リプライズ~三重唱』での二人のやりとり(というより、すれ違い)がいっそう切なく感じられるのだ。夫婦とは若い男女が恋に落ちたその情熱のままに継続できる関係性ではないと痛感する。エリザベートとフランツの場合、各々の目指すものが最初から絶対的に異なっていた。
 
エリザベートはフランツに対し、父親に抱いていた感情と近い関係性を築けることを期待していたのではないかと思う。一緒に人生の自由さを楽しむことができ、ありのままの自分を受け止めてくれる存在への信頼と愛情。しかしフランツは、エリザベートの夫である以前にハプスブルグ家の皇帝であった。二人の結婚生活は最初からうまくいくはずもなかったのかもしれない。
 
 
大人になると自分の欲はある程度抑え、義務を果たし、社会に迎合する術を身に着けるのは、人の世を生き抜く技術のひとつでもある。19世紀だろうが21世紀だろうが、皇帝だろうが庶民だろうが、ヨーロッパだろうが日本だろうが、社会に属する以上、なにかを我慢しながら、折り合いをつけて生きていくことに変わりはない。一方、「死の帝王」に愛されてしまったエリザベートは、好きなように生きたい、自由に生きたいと嘯きながら、みずから破滅への道を選び続ける。
 
破滅へ引き込んだトート閣下の吸引力とはなんだったのか。シシィ自身の人間性と生きる意思はどこにあったのか。あるいはこれは、ハプスブルグの闇が生み出した悲劇なのか。今年、再演される「エリザベート」を観劇に行くことができれば、生の人間の身体を借りた彼らがどのように立ち上がってくるのか、確かめたいと強く思った。