耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

オルハン・パムク『雪』とイスマイル・カダレ『砕かれた四月』

『雪』オルハン・パムク(宮下遼 訳)

欧州暮らしをしていたトルコ生まれの詩人Ka、彼の帰郷した街で、政治的イデオロギーを背景に劇場でのテロリズムが発生する。詩人なのか、あるいはジャーナリストなのかを自分自身にすら曖昧にしたまま街の人々と対話を続けるKaは、著者の代弁者なのかと思っていたら、途中で「オルハン」はKaの同業の友人であり語り手であることが分かってくる。これらフィクションと実在、問いの所在が個人の内面なのかあるいは社会なのかといった境界の曖昧さも、著者の作為なのかもしれない。

絶世の美女イペキに、これといった理由もなくあっというまに恋に落ちてしまうKa(やオルハン)には、ほんまにも〜すぐ鼻の下伸ばして〜😤やれやれみたいな気持ちにはなるのだが、われわれが低俗なものと見なしてしまいそうになるそれら肉欲や恋心と、また同時にうっかりすると「高尚」と位置付けてしまいそうな宗教的な論争、そこへ様々なイデオロギーを背景にした政治的思惑は絡み合い、それらすべては降りしきる雪のフィルターに覆われ、様々な議論はいわば平行線のまま、明確な結論や線引きがなされないで物語は進行する。

そもそも人の思想や情念や肉体的営みも含めた生活の何が素晴らしいもので何が下らないのかなどということを決めることは不可能なのだ。本作ではこのトルコのカルスという街に代表されているが、習慣や心情に深く根付いたイスラム教の信仰、西欧的民主主義・資本主義に追いつくべきというアジア諸国に等しく存在するグローバリズム社会のプレッシャー、その一方で存在するナショナリズム的な自尊心の問題、金銭や教育の格差、多民族の共存といった、様々なイデオロギーや政治的課題の衝突する場では、それらを切り分けて一つの方向に推し進めること自体に何か無理があるのではないだろうか……

 

『砕かれた四月』イスマイル・カダレ(平岡敦 訳)

続いてこちら、パムクの『雪』を読んだばかりだったので、ここでも「外側からは分からない、おれたちの本当のところ」が書かれているのが一緒やん!となった。

舞台は20世紀初頭、アルバニアの山地。先祖代々、一族どうしが血を血で返す復讐が定められた「掟」のなかで暮らす人びとの物語がサスペンス調で語られる。

恥ずかしながら実のところアルバニアがどこにあるのかも危うかったのだが、調べてみるとトルコと地理的にさほど離れていなかった。西側諸国が先に先進国と名乗ったばかりに、西側からみて他者に位置づけられる社会は、辺縁ということにされてしまった。だが、その物差しではかれるのは本来は全く一面的な指標でしかないのではないか? 世界には無数の価値基準や倫理観をもった社会が存在しているのだから。

『雪』と同じように『砕かれた四月』にも作中に作家という人種がでてくる。彼は観察者の立場で、かれらを理解しているふうだけれど、その実オリエンタリズム的な眼差しで面白がっているだけなのではないか……という告発が、こちらのほうがよりいっそう鋭利に思えた。『砕かれた四月』の作家(べシアン)の興味本位の視線がより露骨なのだ。

小説という形式で書くとき、それは西欧を先に行くものとして捉えた言葉にならざるとえず、となれば西側からすれば奥地の文化であるおれたちのことを小説で語ろうとすれば、それはおれたちの言葉には決してならない。山人文化の深層の理解からは遠ざかってしまうという矛盾にたいする作家の罪悪感が、こういう構成になさしめるのだろうか……。パムクもこちらも、どういった読者層を意識して書かれたのかは気になる。

そしていずれもロマンティックラブ的な筋書き(の悲劇)で物語が閉じられているというのも面白い。山人にしてもイスラム教にしても、おれたちの「掟」においては女の存在は疎外されているのだが、女を疎外しつづけた結果「おれたち」の首をみずから締め続けているのだと社会自体が薄々は気づいているような気もする。

ディアナは「善悪を超えた」大いなる存在である「掟」にとりこまれたジョルグに惹かれ、ジョルグは掟の埒外にある存在ディアナに惹かれる。対偶の関係にあるふたりが再び交わることがないのは小説的に当然の美しい帰結だが、決して逃げだそうとすることもなく、助けを求めることもしないジョルグが可能だったたったひとつの抵抗がディアナの乗った馬車を求めることだったのだと思うと物悲しい。逃げようとする足すら縛る掟とは、と考えてしまうが、一方で外側からそれらを断罪することもまた身勝手なのだと思わさせられるのだった。