耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

人生が空間へ変貌する場所~オルハン・パムク『無垢の博物館』

大昔、片思いをしていたときのことを思い出した。それは恋愛というよりは執着で、そしてもしかするとたしかに、収集心でもあったかもしれない。毎日その相手にあうたびにあったどんな小さな出来事さえも大事に胸にしまって家に帰り、日記に書き留めては見返していた。そう、あれはたしかにコレクションだった。

この小説を読みながらそんなことが腑に落ちた。

もしあらすじだけをかいつまんで説明したとしたらこの主人公の男のしたことは狂気だし、もし同じ世界に住んでいる人物だったのなら軽蔑と嫌悪のミルフィーユを投げつけたい気持ちになってあきれはてていただろうなと思う。だけど住む国も時代も性別も信じる宗教も違うわたしが、感情移入するレベルまで引き上げられてのめりこまされてしまう小説という媒体の離れ業。ひとりの真っ当で裕福な働き盛りの男が、キモい変態に変容して仕事も婚約者も社会的地位もなにもかも失う過程。さらには失恋に完膚なきまでに叩きのめされた挙句、逆にまともな思考を取り戻してしまうというトリッキーな心理の移ろいを眺めるという下世話な関心が満たされる前半。そして30代にして人生にもはや何もなく、何も起こらず、たったひとつの片思いという執着心いやコレクションのことだけを描く、どこまでも狂気的な後半……。そして最終的には「無垢の博物館」という文字通りの私欲のかたまりをどこまでも西欧諸国と対比させたトルコの国民意識、という壮大なテーマに帰着させるあたりは、もうこれはほんとうに、著者の文化的背景と圧倒的な筆力にものをいわせた魔術だとしか思えなかった。前半から各所に『グレート・ギャツビー』を彷彿とさせる空虚できらびやかなシーンをちりばめたり、さらには一か所直接『グレート・ギャツビー』にかんする言及*1があったり、また結末からしても、もしかすると著者はトルコ版ギャツビーとして西欧へのアンチテーゼをかましたかったのかな?という感じがした。

 

また、男女の性生活や恋愛にかんするイスラムの保守的な価値観と「西洋的」な「進んだ」価値観との間で揺れ動く1970年代のイスタンブールの若者たちを描いているあたり、現代日本にも通じるところがあると感じて興味深かった。女性たち自身にもほぼ無意識的に内面化された処女信仰であったり性的に奔放である勿れとする規範意識と、成人してから流れ込んでくるそれらへの反発が、自分の中の感性/理性で対立するあの感じ。アジア圏の国がグローバル化・経済発展の波にのまれる中で避けて通れない道なのかもしれないなと。

そして主人公・ケマルは中立で客観的なように見えるのだけれど、やはり保守的な感覚から逃れられていなかったんだな、ということを繰り返し繰り返し突きつけられる。全身全霊でプロポーズしようとして思い描く場面が、フュスンの父親に対してのそれだというのもそう。そもそも破滅的だとわかっていて最初にフュスンと体を重ねたのも、婚約破棄してフュスンと結婚するという決断ができなかったのも、自分の身勝手がスィベルとフュスンいずれの人生を空費しているという判断ができなかったのも、全部。


というか、そもそもケマルが中立で客観的に見えていたのは、過去を振り返っている視点で書かれているためであって、当時のケマルが女性にたいして本当はどう振る舞っていたのかというのは分からずじまいではあるんですよね。そう考えるとフュスンの度重なる思わせぶりなふるまい、そしてケマルが何度も何度も言い聞かせるように繰り返す「幸福」というものはすべて主観にすぎないと気づかされる。この主観のマジックを使って読者は幻惑されていたのだろうか?〈パムク氏〉が単に婚約式に仏頂面で登場するだけなら遊び心だが、わざわざ〈パムク氏〉に依頼して一人称で書いた小説であるということまでも作中に入れ込んでいることからしても、全部仕掛けだったのだろうか。


こういういわゆる「信頼できない語り手」的にとらえられるところもわたしの好きな小説ツボを押してくるのだが、さらに好きな要素をあげれば、やっぱりこれが「博物館小説」であるというところ。だれかの人生の大切な瞬間をよく知っているはずの、古くて取るに足らない数々の日用品たち……しかし見る人が見れば、確かになんらかの記憶を掻き立てるよすがになるものへの郷愁。こういう物質的なものへの執着心を、ここまで丹念に執念深く書いている小説があっただろうか(しかもこの博物館がなんとイスタンブールに実在してしまっているというのだから、エンターテインメントとして徹底している…)。

人生の何気ない時間の集積のひとつひとつを博物館のガラスケースの中に封じ込めていられたら、それだけで人生はどんな平凡なものであっても面白く、そして素晴らしいと感じられることか。あらすじが陳腐だからこそ(もちろん、この小説においては戦略的に陳腐なあらすじを採用しているとわたしは考えているのだが)、すべての人生は当人にとっては至高のものであると信じさせられる小説だった。

 

 

 

*1:上巻p.446