原作は小中学生のとき大ファンだったものの、ここ二十年くらいはきちんと読み返しておらず、ついていけることやら…と少々心配しながら見に行ったけれど杞憂だった。それくらい距離があっても、自分の人格が根を張った過程には、この十二国記のメッセージが寄与してくれていた、と思い出してじんわりうれしかった。
舞台美術の糸みたいな幕が簾のようにたくさん垂れ下がっているのが、きれいだなと思っていた。最後の即位のところで糸が切れて落ちるのどうなっているんだろう……毎回どうやって戻してるんだ。あれが「あちら」と「こちら」の世界の境界を表している役目だと思うのだけど、陽子が十二国の世界で生きることを受け入れて、彼女の中でその役目を失った糸が床に落ちた後の様子が、三階席からみると波打ち際のように見えて。海なんだ、と思った。海が境界なんだと。
アニメ化もみてなかったもので、楽俊がそうきたか〜、という表現になっててかわいかった。というか登場人物のビジュアルが全部山田絵の3D再現すぎてびっくりした……いやこれはもはや4Dといってもいい。特に麒麟。佇まいとかしぐさのすべてが「そうか、麒麟が病むってこういうことなんだ」「美しい獣ってこういうことなんだ」という説得力になっていて、舞台上にいるとじっとみてしまう。
景麒は登場シーンがすくないのに存在感がすごい。というか『月の影』のストーリー上そういう役回りではあるけど、まさか「美しい獣」としての麒麟姿も見られると思っていなくて。でもそうでしかないよなという表象であると同時に、想像の余地も残るビジュアルになっていて良かった。物語の流れの中でも、前半の陽子に対する冷たい態度と、後半になって失望から敬意に変化するさまも見えて。動物がなついてくれたときのほっとする感情(?)が味わえてよかったな。といってもわたしは十二国記自体、『風の万里 黎明の空』を月影より先に読むという邪道をしているので(でもあの頃は今みたいにSNSで読む順を親切に教えてくれる人なんていなかったから…)初見で景麒にたいする「この人なんなん?」からの変化を味わうみたいなことは永遠にできないのだが…
塙麟もあまりにイメージしていたとおりの塙麟で、見とれた……可憐で儚くて、哀れな麒麟。塙王は舞台でもめっちゃちょっとしか出てこないけど自分が大人になったからなのか、それとも演劇という装置の特性ゆえ(異質な人間の心情や背景への想像を促しやすい)なのか、罪深さを自覚しながら破滅へと向かっている姿に惹かれた。もっと見たいと思ってしまった。
あと全体的にめっちゃいろんな種類の妖魔が次々出て来るのがすごい…個人的には映画などでもアクションシーンはとばしたいと思ってしまうタイプなので「ほえー」と見てるだけではあったのですが。景麒の指令でさえちゃんと実体があるし、人と戦って斬られて倒れるし、CGの時代だからこそこういう操演的なものをしっかりやっていることに純粋に「すごい」という感情がわいてくるな〜
最初のうちだれもが陽子がなぜ二人いるのか考えながら見ることになると思うんだけど、これが陽子が「自分がどうありたいか」を見出して成長する物語だと知らされて完結するところで一幕が終わる。それで女子高生の陽子がいる意味がわかった。
虚海を渡った直後は演じている柚香光さんの身体が借着にしか見えなかったのに、次第に陽子の自我と馴染んでいって、最初は本体にしか見えなかった「陽子」が離れていく感じがわかって、文字通り身を切るような寂しさと、だけど成長ってそういうことだよね、と腑に落ちる感覚と。
自分がどうあるべきかどう振る舞うべきか決めあぐねて、自分が自分でいることにずっとしっくりこなかった10代の少女が、本来の居場所であるはずの「向こう」でも壁にぶつかってしまう。その上で、自分のなかの弱さに向き合った上で「自分」がどうありたいかを、自分で決める。
異世界転生ファンタジーではあるものの、自分は自分であるという最大の現実からは逃れられない。ただ自分がどうありたいかを決められるだけ……現実と同じように。そういう気づきとか、人生にたいして腹を括る瞬間みたいなものが十二国記の醍醐味だし(延王が迷う陽子に「お前さんはすでに自分を治める王だ」って言ったところでぐっときてしまった、延王って今見ると本当においしい役回りやな…)だからこそ成長途上の十代の少女たちにとってエンパワメントになる成長物語だったんですよね。
ということを久々に思い出し、自分の倫理観が構成された物語に改めて出合い直した観劇になりました。