耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

親しい人のよいところは言葉にしたほうがいい

先日、友達の結婚式に出席してきた。9歳の時に出会い、いまも2〜3か月と間を置かずに会っている25年来の友。

スピーチをたのまれていたので、彼女への手紙を読むという形式で、わたししか知らない彼女とのエピソードを交え、賓客の皆さんに彼女のよいところを紹介した。といっても、そこにいたのは既に彼女の人柄を知っている人ばかりだったのだけれど。

もともとわたし自身が人前で話すのに不慣れなことからくるプレッシャー、それも大事な人の大事な日の大事な場……ということもあり大変緊張していたのだが、手紙を読み始めるやいなや感極まってきて泣いてしまった。なんで結婚式って泣いてしまうんだろう、別に彼女が決定的に何か変質したり会えなくなってしまうわけでもないのに(卒業式だって泣いてないし、彼女が留学に行ったり移住するときだって泣かなかった)と思うのだが、実際のところ我々にとっては結婚とか結婚式そのものに何か意味があるというわけではない。ただ、「この機会をかりて」ふだん口にしない感謝とか、相手への思いとか、そういうことを改めて伝えることに意味があるのだと悟った。それも、LINEの画面でさらっと送るような文面ではなく、他の人に説明する形でやることが重要なのだ。そうでなければ出てこなかったはずの言葉がそこにはあり、言葉がなければ生まれなかった思いがあった。

彼女に出会っていなければ、あのとき友達になってくれていなかったら今ここにいるわたしは全く別の自分になっていた。だけどそんなことにも、彼女への手紙を書くまで気づいていなかった。当たり前に約束した日にいつもの場所で待ち合わせ、タイ料理だの寿司だのを食べながらダラダラと最近のことをしゃべり、そんな定例会をこれからも淡々とつづけていくだけなら、もしかするとわたしが彼女のどこが好きでどんなところを尊敬していてどんな行動に感謝し見習うべきなのか、改めて考えてみることもなかったのかもしれない。私は気遣ってもらい、与えてもらってばかりの状態を当然と考える傲慢さを加速させていたかもしれない。

誕生日でもなんでもいいから身近な大切な人に感謝の気持ちを伝えることを定期的に真剣にやったほうがいいと思った。ありがとうという言葉が毎日無意識にぽろぽろ口からこぼれている、人に頼りまくり暮らしのわたしだが、一体何に感謝しているのかいちいちはっきりさせなければいけない。そうしていればいつかは、してもらったことが自分の養分になり、与えてくれた人や他の人たちに自覚的に返すことができるようになるのではないか、と期待する。