耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

ミュージカル「マリー・キュリー」感想

ミュージカル「マリー・キュリー」を観てきた。

※以下、いつものように詳細な内容に触れる記述になるため未見の方は読むことをおすすめしません

 

mariecurie-musical.jp

 

 

 

 

 

全てが最後のクライマックスに向けてのために存在しているような話だったなーと思う。屋上でのアンヌとのシーンからピエールとの別離のシーンまでのところ、なんだかものすごく泣いてしまい、しゃくりあげるのを我慢して客席で震えていた。右隣の人も左隣の人も泣いていた。今思えば、わたしが見ていたのはほとんど共同幻想みたいなものだと思う。客席につめこまれた人たちと見た、わたしたちの人生では叶わなかった夢。

そう、あんなふうに抱きしめられたかった。あなたは正しいことをしてる、信じているって言われたかった。一番信頼して、一番失望されたくないあなたに。

何かを考えるよりも先に、歌と演技の圧で胸の奥をぐぐっと掴まれてぎゅうぎゅう揺さぶられている感じ。そうだ、テレビで見るドラマのお芝居がどんなに面白くても、生の舞台のミュージカルでしか味わえないこんな感覚ってあったんだ、と思い出させられる。

 

一幕から一つずつ置いてきた布石が回収される最終章。「わたしが誰かではなく、わたしが何をしたかを見てください」とは、自分が女であるというだけで下に見てくる学界に対して毅然と言い放ち、男社会の中で結果を出してきたマリー自身の台詞。ラジウム健康被害という大きすぎる壁と、癌細胞の放射線治療の希望との板挟みになり、自分を見失っていたときに、ずっと自分自身が口にしてきたその言葉を返される展開に胸が震えた。

アンヌは自分のキャリアの心の支えとなってきた親友であると同時に、ラジウムを扱う工場で働かせてもしまっていた、その負い目もある。だからこそああして許せる尊さを思って泣く。でもだからこそ、どうしてそんなふうにマリーを許せたのだろうと考えてしまう。

きっとたぶんアンヌは、マリーの姿から死の苦しみ以上の希望を貰っていた。だからマリーが過ちを正すためのアクションを取れると信じられていた。

希望。

この作品、わたしは命をすり減らすことと・希望の天秤の話のように思う。

身体が取り返しもつかないほどに損なわれたとしても、希望を持って人生の時間を過ごしたことの価値は失われない、ということの。

だからこそ、少し危うくもあるなあとは思っている。


ルイーズの治療が成功したあとのシーンで、アンヌとマリーが顔を合わせてマリーが咎められる瞬間、アンヌに直接言い訳をするんじゃなく、あえてルーベンの方に向かって「なぜ工場を止めなかった」って叫んでしまうところ。フィクションらしい甘やかさも多いこの作品の中で、あれはかなり生々しい1シーンだったなあと思う。

解釈は分かれるのかもしれないけれど、やっぱりマリーは薄々ルーベンがやっていることを分かっていて、でも保身の気持ちがあって強くは出られなかったのだと思う。

保身といっても、個人として手に入れた名声や権威とかではなく、彼女の場合はマイノリティとして背負ってきた「ポーランド人」や「女性科学者」としての肩書きがある。こういう抑圧をはねのけて築きあげてきたものを傷つけてしまうことの恐れからくるプレッシャーは、より強くあったとは思うのだけれど。

だけどアンヌに向かい合った瞬間、そういう言い訳が全部効かない一人の人間になってしまう。対等な個と個として、この人にだけはがっかりされたくないと思う相手に、自分の正しくなさを知られ、失望されてしまうこと。研究の失敗よりも社会的地位の失墜よりも、なんなら自分の過失でたくさんの人の命を奪うのを見過ごしてきたことよりも、きっとそれを知られることの方が、マリーにとっては怖かった。

そういうマリーの二面性を、もう少し様々なシーンで感じられたらもっと面白かったのかもしれない、と思ってしまう。

 

他にももし再演があるならブラッシュアップされているといいなーと思ったところはいくつかある。

たとえば、怒りや口論の場面で大声で叫びがちなところは少し疲れてしまったかな、とか。2幕の屋上のシーンのための色々だというのは最後まで観たからこそわかったものの、逆に言えばそこまでは単調に感じていたので(ぽんぽんとマリーの人生のワンシーンが切り取られて展開するわりに、場面や衣装が大きく目を引くわけでもなく、音楽もそれほど耳に残るようなメロディがあるわけでもなく)役者さんの演技の力で観れていたという感じだったので、怒りを表現するにしてももっと演出や曲のバリエーションが欲しかった気がする。

ああでも、その点では実験台のマウスと行員が二重写しになっが踊って倒れる一連の曲は面白くて。生きものを実験対象とし観察することの有用さと同時にぞわぞわする残酷さをも告発しているシーン。

この題材を扱う以上はそれこそがメインテーマにもなりうると思うのだけど、全体を通すとマリーの「ひとりの人間としての筋の通し方」にフォーカスしていて、言ってしまえばちょっと赤の他人のための気持ちのいいお話に仕立てているので、実際に健康被害を受けた方のことを考えるとこういうお話しにされてしまうのはどうなのかな…と考えだすと受け入れにくいと感じる人もいるかもなあ、とも思った。

 

韓国産ミュージカル、それほどたくさん観ているわけではないものの、MAみたいに多少「ん?」と思うところがあってもそれ以上に刺さってしまって忘れられなくなり、とにかくエモーショナルな部分に訴えかけられて情動がめちゃくちゃ揺さぶられるジャンル、というイメージにわたしの中ではなってきている。

 

はあ〜それにしても…、「頑張ったね」、ってヨシヨシされたいよね……ってことをラストシーン観ててすごく思いました。「あなたのやったことは正しかったよ、よくやったよ」って、死ぬ時にちゃんと言われたいよ。だって一人で決めて行動するのって怖いしとても不安だもんね…

あの人に失望されたくない、というのはあの人に認めてほしい、というのと同じことで、そういう人に出会えたのなら先の見えない人生に光が灯ったように思えるのだろうな。

アンヌにとってはマリーで、そしてマリーにとってもそれはアンヌだった。

支え合って一緒に戦って励ましあって、そういう他人に出会えていること、それそのもののありがたみを心底知っている今日この頃だからこそ、めちゃくちゃ泣いてしまったんだよなあ…、と思う。

 

そうそうあとピエール・キュリーとのシーンが全編めちゃくちゃ良かった!

というかこの作品のピエールのキャラが良い……良い夫……。

妻の親友が誕生日に持ってきてくれたバブカ(ポーランドのケーキみたいなもの?)のサーブを自然に行い、研究に没頭して生活のことを蔑ろにしがちな妻のフォローを日常的に担い、妻との共同研究で自分だけが受賞した際にも妻の意向を話し合い尊重し、「フランス人で男性の貴方には分からない」と言われても黙って自分の足にラジウムを巻く。

ずっとそうして対等な人間として付き合ってきたところを見せられたからこそ、死後も彼の存在がマリーに寄り添い支えとなっていることが感じられる。キスシーンや結婚式がなくても愛を表現できるんだ、ということをしみじみと感じられる夫婦関係の表現だった。

余談なのですがピエール役の上山さんの所作、というか妻に触れるときの親密な雰囲気の演技がめちゃくちゃうまい~と思ったことを記しておきます。なんというかあの、日本の公共の場でやったら「お、おう」って一瞬思っちゃうけど海外の方だと分かった瞬間「ああ…」と思うレベルの身体の距離感…。社交の場に常に夫婦で登場することが全く自然である文化圏のふるまいが至極自然にできる素敵さ…。