耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

2024年5月に読んだ本とか

最近のようす

5月の日記を見返すと充実している。仕事がひまだったからだ。おもしろいブログを発見して過去ログまで遡って読みふけったり、家の中の棚のごちゃごちゃに詰めこんだまま整頓できてないところを整頓する計画を立てたり(実際には整頓してない)、見返したいと思ってた映画を見返したり(グランド・ブダペスト・ホテル)、子どもが突然「てつどうはくぶつかんいきたい!」と言い出したのに乗っかって一年ぶり二回目の京都鉄道博物館を訪れてはしゃいだり、新しい鞄を買ってうきうきしたり、していた。

去年のうだるような暑さの記憶におびえて早々に夏の覚悟をしていたためか、今年の5月はすこぶる過ごしやすく薫風の候というかんじで気持ちよく暮らした。今から4ヶ月くらいずっとこの気候だったらいいのに。

 

 

読んだ本

『私をくいとめて』綿矢りさ

悩める独身アラサー女みつ子が頭の中につくりだした「A」という存在と会話し励まし合いながら現実社会と格闘し、繰り広げる恋愛模様を描く、という小説でわたしの要約だとめちゃくちゃつまんなそうになるけどそこは綿矢りさなのでめっちゃおもしろいです。テンポがよくて一気読み。そして最終的になんかほっこりする。

架空のA、とみせかけて、自分で自分を励ます力をきちんと身につけているみつ子という人はきちんと立派に自立したおとななのだ。最後まで読むとしみじみ気づかされる。そう、もしかするとかつての価値観ならば、30超えたのに自己本位で幼稚に生きてるように見られてしまう30代。でも実はそれぞれが自分なりのやり方で自己統制して社会を回してる自立した構成員なんだよね、と、同世代を励まし上世代に主張する小説だ。

金原ひとみの解説もすごい。周囲の具体的エピソードからひといきで言い切るような一刀両断の分析、そしてふた息めにはそれを端的そして鋭利に掘り下げるあざやかな書きっぷり。

 

『プラナリア』山本文緒

 私は自分がやがて立ち直って、また社会に出て働きはじめるであろうことは分かっていた。〈略〉転んで怪我をしても、やがてその傷が治ったら立ち上がらなくてはならないのが人間だ。それが嫌だった。いつの間にか体と心に備わっている回復力が訳もなく忌々しかった。(p.106)

こういう一節があるからもっとこの著者の作品を読みたくなってしまうんだと思う。目に見えないダメージを負っている人の心を掬い取るこの細やかさ。

『どこかではないここ』
放り出すような終わりかたにこっちが放心してしまう。他人に関心がない、というのは自分がない、自分に関心がないというのと同じなんだ。
そこはかとなく漂う90年代の香り…。今の40〜50代はこういう夫や親や子のために思考停止して自己犠牲するのが真面目で正しい唯一の生き方だみたいな感覚は薄れ始めたころなのかもしれないけど、ちょうど90年代がその過渡期だったんだろうな。だからこれが息子を殴り、娘が「お母さんみたいな生き方をしたくない」とさけぶ話になったのかな、という感じがする。

『囚われ人のジレンマ』
勉強した女が稼いで自立しはじめる時代の空気をすくいつつ、でもこれってやっぱり〈囚われ人〉のジレンマの話なんだ…と最後まで読んで絶望的な気持ちになった。どんなに勉強して賢くなっても家に囚われて自由になるためにその力を使えない子どもたち。そのことに気づいているから結婚をためらいつづける。

『あいあるあした』
めっちゃ刺さって泣いてしまった……。真面目に頑張って生きているだけなのに、まあ確かに欠点もあるけど、でも別に悪人とかじゃ全然なくてただ完璧じゃないってだけなのに、何故か少しずつ悪くなってしまうかのような、片隅の人生。だけど、それでも少しだけでも報われて、ささやかな、ほんとうにささやかな理想が叶って、他人だらけのなかに自分の居場所ができることがある。それだけのことのようで、いちばん難しくていちばん得がたい幸せなのかも、と思ったら涙がでてしまうよ。

 

『なぎさ』山本文緒
なぎさ (角川文庫)

なぎさ (角川文庫)

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冬乃や彼女の夫である佐々井、あるいはもうひとりの主人公である河崎の身に振りかかる人生の荒波は非常にシビアなのだが、同時に他人事とは切り離せないというか、自分の身に起こってもなんらおかしくないような出来事。だけど経験が彼女ら自身の心を鍛えていくのだと気づかされ、励まされる力強さもある。だからつい目が離せなくて読み進めたくなる。

恋愛というよりは、ここにあるのは人と一緒に生きていくことについての物語だ。

彼女らの苦難に手を差し伸べる韮崎さんのような人がいる一方で、〈モリ〉みたいにつかみどころのない人間がいる。良くも悪くも気まぐれに他人の人生をかき回し、ふっといなくなるような〈モリ〉はわたしからすると少し怖いような気がする。だけどこの小説は〈モリ〉の語りにも紙幅を割く。全知の存在なんかじゃなくて、彼もまた生身の人間であるということ。人をたらしこんでうまくやって人生の苦難から逃れているようで、その実どこにも漂着できず錨を下ろすことができない、内面の隙間をかかえた人間なのかも、と感じさせる。


『フリアとシナリオライター』マリオ・バルガス=リョサ

公序良俗とか倫理観みたいなものを全部差っ引いても、とにかく読んでいる最中ニヤニヤし、長いのに続きを読むのが楽しみでワクワクしつづけていた小説。裏表紙のあらすじに「スラップスティック青春コメディ」と書かれているのが著者のイメージと違いすぎてハテ…と思いながら読んだのだけどなるほど確かに何回も噴き出してしまった。

そもそも、構成が凝っている小説がわたしは好きです。物書き志望の主人公マリオ18歳(著者自身の若年期と最初の妻を題材にした話でもある)が年上の魅力的な女性フリアとロミオとジュリエットばりの家族総出で大反対される恋愛を繰り広げる青春ラブコメと並行し、マリオの勤め先のラジオ局に現れたワーカホリックで変わり者のシナリオライターが書くラジオ劇場のストーリーが語られる、というのが大枠なのだが、途中から働きすぎのシナリオライターが精神を病みはじめ、ラジオ劇場の様子がおかしくなっていく。

シナリオライターの〈末路〉とでも言うしかない最終章の物悲しい描きようをみると、なんだかこのシナリオライターが書いては棄ててきた大衆を楽しませるためだけの俗っぽいストーリーと、マリオの目指した文学性が対置されているように感じられてしまう。でも一方で、この小説を読み切った我々には、それら〈楽しむためだけのストーリー〉に価値がないなんてことは全くないことが分かっているわけで。

そう考えるとこの本の存在そのものが、文学を目指した若い物書きだった自身の奮闘を、まるごと抱きしめる小説になっているような気もする。

 

舞台

劇団四季『ジーザス・クライスト・スーパースター』エルサレムバージョン (京都劇場)

JCS初見です。はじめは若干ついていけてなくてポカーンとしていたけど、当時の人間たちにとってはキリスト教がようわからんあやしい新興宗教集団だったんよなってことを思い出して見だすとしっくりくる感じが。

ジーザスはただ他の人より美しくてカリスマ性があっただけのただの1人の人間。彼という人よりも周囲の人間の集まり、「人間の集団」という存在そのものが、どうしてこんなに力を持ってしまうのか(そして人間の集団を動かすのは、明確な思想や意志よりも感情が優先されてしまう)という話なのかなあと思った。

ジーザスは本当に善意で人を救いたいと思っていたし、それがあるときたまたま奇跡という形で実現してしまったために、神が自分という存在を認めてくれたのだと信じていた。それが自信にもなっていた、それなのに何故か突然神は自分を見捨てて鞭打つようになった…。

ただジーザスの苦悩みたいなものは外側からは見えなくて、どちらかというとただ人々の思いを受け止め神の意志を実現するためだけの器というか形代みたいなものとしてあり続けている。一方ユダは敬愛する人間が自分だけのものではないことを不服に思って裏切り、それをした瞬間にジーザスが苦悩するただの男であると気づく。それを聞いた後になって観客(というかわたし)にも次第にジーザスがただの1人の人間として苦しみ困惑する様子が見えるようになっていく…という感じだった。

というかこの舞台って主演ユダですよね? ジーザスへのキスといい……それであの突然おねえさんをはべらせて胸元めっちゃはだけた鎧みたいなん着て出てきた時びっくりしすぎてニヤニヤが止まらなかった。それまで超深刻だったのにどうした!?いや好きだが……。ちなみにユダの人がめっちゃノートルダムのフィーバスっぽいな〜と思いながら見ていたら佐久間仁さんは確かにわたしはフィーバスで見たことある方だった。あのちょっと軽薄そうな雰囲気なのに実際は純情みたいなキャラ(ほめている)なところが胸元はだけた鎧にあっててかっこよかったです。

スーパースターって銘打っているくらいだからもっとロックミュージシャンのライブみたいな見せ場が多いのかなと思っていたのにジーザスの見せ場自体はゲツセマネぐらい?だったので、そこはちょっと拍子抜けだったかもしれない。

 

↓映画は未見