耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

2024年4月頃に読んだ本とか

4月もなんだか生活と体調と仕事がばたばたしていてあんまり本を読む気分にならず、GWに入ってから短編やエッセイを読んでゆるゆると読書モードをオンにしていった感じ。

だがそれにしては、実は人生ベスト級によい本に出会えたという感触、積んでいた本を解消すると「なんでこんな素晴らしい本をずっと積んでいたのだわたしは…」と愕然とするのだが、しかし心が開かれていなければ素晴らしい本も素晴らしいと感じることができない。自分には自分の出会うべきタイミングがあるのだと思うことにしよう。勤勉になろうとする意志から離れようとする怠惰な過去の自分の気分も大切にしよう。

 

 

読んだ本

『保育士よちよち日記』
保育士よちよち日記

夫が図書館で借りてきた本を勝手に拝借。企業勤めをしながら子育てをした後40代で保育士資格を取得し、現役で派遣保育士として働かれている方のエッセイ。

保護者の側としても保育業界の裏側は気になるもの。それも普段は男性比率の高いデスクワーク中心の会社づとめをしている身からすると、仕事内容や人間関係についても、近いはずなのにかけ離れた世界のように感じられて興味深い。日々の送り迎えで日常的に接しているのにもかかわらず、保育士さんの業務形態にどんなものがあるのかすら知らなかった。(ちなみに著者はあえて正社員にならず派遣でいろんな保育園を渡り歩いている方。人間関係のしがらみにとらわれないため、あえて派遣を選ぶ方も多いのだとか……詳しくは本書を参照)

立場上我々はサービスを受ける側であるので、保育士さんたちは気を配って接してくださっているが、当然のことながら保育士さんたちも我々と同じ人間なんだよね……保護者の噂話もすれば園児への好き嫌いもそりゃまあ、ある人はあるよね……。それでも子どもたちの命を最優先にしてくださっている保育士さんたちに改めて感謝の気持ち。

 

柴崎友香『百年と一日』

読み進めるたびに「すごくいい」「これがいちばんいい」「たまらなくいい」を更新してくる。たった数ページの小説が34編。ショートショートぐらいの長さの物語のそれぞれに、起承転結や息をのむオチがあるわけではない、淡々と出来事と時間の経過についてが書かれているだけ。それなのに深々と胸に広がる余韻がある。

ふと思いに浮かんだとしてもすぐに消えて忘れてしまうような、人に話すまでもないような、あるときふと思い出してもすぐまた忘れてしまうような、すんなりと通り過ぎてしまったところで世界がなんにも変わらないような、些細でどうってことない出来事とか思いとか。そういうものが、文字にしてただ「あったのだ」と書き留められていることが、なぜかわたしを安堵させる。

その場所にだれかがいて、生活したり仕事をしたり歩き回ったり、だけど百年のうちにはその風景も住まう人もそこにある感情も移り変わって、忘れられてしまう。

地下の噴水広場がなくなり、踏切がなくなり、線路が地上からなくなり、陸橋ができ、公園ができ、アパートがなくなりマンションができ、店がなくなり店ができる。

30年も生きていると、見知った街が姿を変えてしまっていたとふと気づき、あっけにとられたような気持ちになることがある。確かにそこにあったものが無くなってしまうこと、代わりに新しいなにかができることについて、何か達観したような感情をいだく。喪失感というものでもなくて、ただ変わっていくことが街の在り方であり人の営みなのだ、と思うようになる。姿を消し、場所を移す、だからといって、そこにそれがあったことまでが無かったことになるわけではないのだ、と。

 

多和田 葉子『星に仄めかされて』

これも過程の話。移動する人。変化する星。

確固たるものかのように思えていた国家も、言語も、性別も、そして地球という乗り物も、実はまったく不確かなものだとみんなが気づきはじめている。だからこそ、世界を分断し明晰にする道具である言葉が、その境界を問い続ける。しかもそのやりかたはまるで遊びのみたいに楽しいものだ。

最近物語に恋愛要素を持ち込むことについて考えていたのだが、この作品においては性を介在させない感情で惹かれあっているヒルコとクヌートという存在によって、その他の、性に振り回されている人びとが他者化され、滑稽にもエネルギッシュにも見えてくる。

 

藤野 可織『ドレス』

ジュエリーをモチーフにした小説を読みたいとずーっとずーっと思っていた。『ドレス』を読んだ瞬間にわたしの読みたかったのはこれだ、とわかった。内面を代弁する装身具としてのジュエリー。社会的な場を弁えている記号的な装いを超えたところにある、単なる自身の内面の表出としての。

本書自体は短編集なのだけど、全体的にどれもおもしろかった。とくに印象的だったのは社会的な女性らしさへの疑義をグロテスクとも幻想的とも感じさせるモチーフで描いている『愛犬』、そして『マイ・ハート・イズ・ユアーズ』は生殖の仕組みにおいて男性が徹底的に犠牲になるシステムとして書いた実験的小説で、フェミニズム小説といえるのだろうけど常に強者である側が弱者を消費する側面を描いていて好きだった。それも本を読む人間としては最も残酷に無邪気に内面を踏みにじっていると思えるやり方で。

 

須賀敦子『遠い朝の本たち』

世の中と、本と、人とにたいする、思いやりに満ちた深く静かな、ときに厳しい洞察。無駄がなく、嘘がなく、研ぎ澄まされているが、簡潔さよりも思慮深さを感じさせる文章。ときにはどきりとさせられ、我が身を顧みて背すじの伸びる思いをさせられる一文に出会う。

文章を書いて、人にどういわれるかではなくて、文章というものは、きちんと書くべきものだから、そのように勉強しなければけないということだったように、私には思える。(p.38)

こんなふうな心構えで文章と向き合えることが、果たしてわたしにできるものだろうか。

 

川原泉『笑う大天使』

名作なのにもっとはやく出会ってこなかったのを後悔している川原泉作品…。しかし全員とにかく男女でくっつかないといけない昭和の作品あるあるがラストにきていたため、なんとなく今の気分に合わず、次は現代の漫画が読みたいなァとなってしまった。いやそういう時代だったときに敢えて良妻賢母の逆張りヒロインを、肩ひじ張らないゆるっとしたコミカルタッチでありながら知性がほの香るこの作風で描いたところが魅力なんだろうけども……

 

舞台

『妻が銀行強盗にあって縮んでしまった事件』

銀行強盗にあった被害者たちのエピソードが淡々と語られていく形式で、演劇としてのドラマティックさや盛り上がりは追求されていない。展覧会のインスタレーションを次々とみていく感覚が近いと思った。これはなんか好き、なんかきれい、よくわかんない、こう言う意味なのかな?みたいなことを1エピソードごとに考えていく感じ。舞踏・音楽・照明・セット・そして言葉をフルに使った総合芸術という意味では美しい、目が楽しい、耳が楽しい、と思う瞬間も多かったけれど、物語の推進力を台詞の応酬ではなくて「語り」を主に据えているので余計に淡々と感じたのかも。

わたしは、花總まりさんのパフォーマンスは台詞の余白にある感情表現に長けていると(勝手ながら)思っているため、次々とナレーションのことばが場面を紡いでいってしまうことがもったいなく感じてしまった。その意味では、夫が雪だるまになってしまう人のエピソードのときは「見守り」と「歌」での表現に入ってたのが良かった(…が、ミラーボールがチカチカして舞台がほとんど見えず、全編でそこが一番残念だった。花總さんの表情だけでも見ごたえがあるはずの場面なのに眩しくて見えないし……見させてくれよ……となった)。

シーン別でいうと、カウンセリングのシーン。花總さん演じる妻がヒステリックにキンキン夫の不満を述べ続けて、椅子がジワァーーーーと離れていくみたいな演出が、笑っちゃいけないと思いつつ笑えた。フルスロットルの長台詞でずっとキンキンする感じのうざったさがすごいハマってたんだけど、本気でシリアスな表現をしたいのならむしろ沈黙の方が感じるものの多い表現になるというのが、お芝居の面白いところ。

好きだったエピソードは母が分裂して塵になってとんでいっちゃった人の話。ちょっとコミカルだけどすがすがしい中に一抹の寂しさを感じさせる。自分がこの世を去るときもこんなふうに「散れたら」いいのに。息子と、その妻がただ見送る姿に涙がでた。