耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

2023年4月に読んだ本とか

綿矢 りさ『手のひらの京』 

三姉妹の話である。京都に複雑な感情を抱える末っ子凛とは、また別の面から京都で生きる人間のたくましさ、ささやかな幸福がバランスよく語られ、飽きのこない構成。個人的には長女綾香を応援したくなるが、断然おもしろいのは次女羽依のパートだ。91ページ、〈京都の伝統芸能「いけず」は…〉から始まる章はこのリズム感といい、京都の外の人の期待するちょっと下世話な興味にこたえるエンターテイメント性といい*1、出会った瞬間ににやっと笑わずにはいられない名文である。

 

ジョージ・エリオット『サイラス・マーナー』 (光文社古典新訳文庫)

最初は貯金しか生きる楽しみがないおじさんが主人公の地味な話なのか…(でも訳が読みやすいからつい読んじゃう)と思っていたら、途中からわらわらと登場人物が増える。

美しくてセンスも気立てもいい女と、その正反対の姉、そして彼女らを羨望と憧れと嫉妬の入り混じった目で見るオシャレなロンドン娘たちの微妙なやりとりが事細かに語られる第14章から、一段と面白くなった。しかし実はこれは本筋ともサイラス・マーナーとも直接関係ないのだが、わたしはこういうのがすごく好き。

後半からは流れるように大団円へ。子どもを育てるって小さい命を生かすということと同時に、ある意味で自分自身の命も救われることだよね…と純粋に思えて、何回も涙ぐんでしまった。特別ひねった所もない素直なハッピーエンドなのだけど、人物描写が仔細なので読み応えもある。

わたしは想像力のない人間なので、育児を少しでも経験する前にもし読んでいても実感を伴うことなく「ふーん」で終わっていたのかもしれないな、と思うと今出会えてよかった本だ。

 

上間 陽子『海をあげる』

あたたかいごはん。青い海の王国。子どもと共にある、何ものにも代え難い日常の尊さが感じられるエッセイの形だからこそ、隣り合わせにある怒りが身に迫る。基地のこと、レイプのこと。犯罪なのに、酷いやり方で踏みにじられたのに、きちんと裁かれもしないこと。東京の大義めいた詭弁のために埋め立てられてしまった海を、これからの世界を生きる子どもに残してしまうこと。知っていて他人事のように感じていたことが本当に本当に恥ずかしい。何ができるのかすぐには分からないけれど、せめて何か行動できるように考えていたい。

文章のうつくしく読みやすい一方で内容は気楽に人にすすめるのは苦しいと思うほどの重さのある本だけれど、でも本当は日本に住んでいる人全員が読むべきなのだと思う。心が元気じゃない人はたぶん最初のエピソードで脱落できるように著者が仕掛けているはずなので、心が元気な人は読んでください。

 

◆観劇系

絶対みにいきたいと思っていたマリー・キュリーとNTL『るつぼ』は観に行けた。

sanasanagi.hatenablog.jp

 

るつぼは戯曲も読みたいと思って積読中。思い返してみるとやはり集団パニックの場面を描くことと演劇という密室空間の相性のよさが醍醐味だと感じた。映像作品とはいえ映画館という劇場空間で観ることで「逃げられない」感覚を体験できたので、現場にいたらどれほどの強烈さかと思う。

セイラムの魔女裁判を題材にしたストーリーであり、悪夢のような演劇なのだろうな…というのは事前に想像がついたので、もともとわたしはそういう話は好みではあるものの、あえて今、自分の時間を割いて行くべきかは多少悩んだ。ただ、怒涛のごとき物語の流れに身を任せていくことで最終的には清々しい余韻に包まれたのは予想外だった。

メインの登場人物であるプロクター氏(演:ブレンダン・カウエル)の犯した罪は、客観的に事象を整理してしまうと全くもって許せない。(時代的な倫理観の相違はあるとはいえ)しかし彼は彼で筋を通したのだよな、と思わせられてしまう文脈を、舞台上で登場させてしまう「勢い」というか「迫力」に感動してしまったんですよね。

プロクター氏の妻(演:アイリーン・ウォルシュ)の演技が凄くて……。あえて観客に解釈の余地を残しているように見える、幾層にも感情の深みを残す表現。わたしには夫を許して愛しているようにも見えたし、でもやっぱり絶対に許してないようにも見える……というより、自分自身で決めきれなかったからこそ彼の一番彼らしい部分に最後は賭けたんじゃないかな、と思った。それもある意味彼女なりの信仰なんじゃないかと。

あと判事のおじさんが自分の間違いを認めたくない、手にした権威を絶対に手放したくない一心で論理も感情もぶれぶれになってしまうのがめちゃくちゃ醜くて生々しい。若い女の子たちが外の社会よりも自分たちの友達関係の中の方がずっと精神的な比重が大きくて影響されやすいのは自分自身の経験からもわかる。ただそれが社会的にそれなりの地位のある人間をも引き摺り下ろす力になってしまうのはちょっとやりすぎでは…という反射的な情みたいなものが湧き上がってくる風景に既視感があり、そういう意味でも現代の社会情勢を反映した演出なのかなと思った。

理性的になんでこうなってしまったのかって話の大元を辿ると「姦淫の罪」を犯した場合に女ばかりが被る不利益が大きすぎる、というところに行き着くのも、むしろ現在のフェミニズム的文脈でとらえるのが自然にさえ感じた。

*1:一応ことわっておくと京都のいけずはごく一部の人にすぎないこともきちんと記述されている