耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

ミス・サイゴン25周年記念公演inロンドン ロードショー感想

以下の文章には内容に触れる詳細な記述を含むおそれがあります。


 極限状況ともいえる絶望の中で、なにをよすがにして生きるのか。

 平穏なぬるま湯のような現代においても、〈ミス・サイゴン〉という物語が輝きを放つのは、これが「夢を見る人」によって作られた「夢をいだく人」の物語だからだと思う。

  Eva Noblezadaの演じるキムからは、三年という月日をたった一人で過ごした人の時間の厚みを感じた。いくらでも辛い時を乗り越えたであろう中で支えとなったのは、ときにはクリスとの愛であり、ときには死んだ両親であり、ときには子どもを守り生き抜かねばならないという強い決意であろう。

 『I'd Give My Life For You』で、タムを強く強く抱きしめた彼女の顔は忘れられない。米兵が引き揚げ、国家が統一されようとも、キムの住む社会では何ひとつ終わっていないとわかる。

 戦後社会を生き抜く彼女の顔には、常に信念がある。

 キムが特定の宗教にとりわけ強く傾倒していたとも思えないのだが、特に戦後社会を生き抜いてきた二幕以降、その表情にはある種の敬虔さを感じる。崇拝の対象がなんであろうと(具体的なものや人であれ、抽象的な観念であれ)、信じる、ということは崇高で、即物的な欲望と比べて圧倒的な力をもっている。

 一方、アメリカ人たちにとっては「戦争は終わった」。新しい人生、新しい自分。以前、大阪公演の舞台を観たとき、一幕と二幕で別人のようになったクリスにもやもやしたことを書いたけれど、確かに彼は別人なのだと思う。

 戦場でクリスがみた苦しみは私の想像を絶するものだっただろう。そのなかで彼が見つけた、たったひとつの光がキム。ここに作り手の「夢」が見える、と私は思う。

 それはたとえ過酷な戦争のさなかでも、争い合う敵同士でも、愛することができる、という希望だ。

 だから、クリスが許されない理由は、その人類規模の希望を、あっさりと手離したことにある。

 キムを愛していたことも、アメリカに連れていきたいと望んだことも、確かに真実だったとは思う。ただ、キムとは対照的に、彼にとってその愛は悪夢に引き戻し縛り続ける枷でしかなかった。そのことを認めるのは苦しい。

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 舞台公演の映像化されたものは観たことがあるが、本公演は初めから映像として作られた映画として見ても面白いと思う。舞台には生の舞台でしか絶対に味わえないたのしみがあるけれど、舞台ではきっと見られなかったはずのアングルや、細かい表情の動き、手の震えや瞳の揺らぎといった細部に至るまできちんと見られるのもまた別の喜びだ。

 映像を通して場面の意図がストレートに汲み取れると思える部分もある。

舞台では「群衆」として一つの役ととらえがちだったアンサンブルキャストの一人一人の表情が、スクリーンに大きく映し出されていること。『The Fall Of Saigon』の場面はほとんど戦争映画を見ているかのように緊迫した画面に息を呑んだ。

 『The Fall Of Saigon』といえば本作の見どころのひとつであるヘリコプターだが、舞台を観ているときは、つい物語に没頭しているのとは別の視点で注視してしまいがちである。しかし映像では、下からのアングルで「我々に強い光をもたらす何か大きなもの」として映されていることにより、大がかりな舞台装置としてではなく、それが「見えざる手」の象徴であるかのように思えた。

 このシーンでジョンの、「裏切るのは彼女だけじゃない」という台詞も示唆的である。国家間の関係であれ、個人どうしの関係であれ、悲劇とはだれかが起こそうとしたから起きるものではない。だれもが自分の最適解を見つけようとして必死にあがいているだけだ。人類である以上、その宿命から逃れることはできない。そうだとすれば、私たちを動かしているのはなんなのか? なんのために人は苦しまなくてはならないのか?

 もしかすると、暗闇に直面しても生き続けている人の中には、信念なんてないのかもしれない。そちらのほうが現実かもしれない。実は帰宅途中の電車の中で、私はそんなことを考えていた。疲れ果てて立ったまま眠っている人がいる、見ず知らずの女性に罵声を浴びせる老人がいる、眉をしかめ他人を押しのけて歩く人、人、人。平和な現代日本と戦時下のベトナムを比べるべくもないけれど、とはいえ夢を抱いている人がここにどれだけいるだろう。

 でも、みんな確かに生きている。

 そうであるなら、この物語そのものが、作り手たちの心に浮かぶ夢からくるものだったのかもしれない。闇の中でも、人間は希望を支えにすれば美しく生き続けられる、ということが。