耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

宝塚花組「ポーの一族」千秋楽ライブビューイング

萩尾望都さんの漫画に初めて触れたのは成人して数年経ってからで、定期的に読みたくなってちょこちょこと文庫版を購入してはいたものの、おそらく多感な少女時代に出会ったファンの方と比べるとわたしは『ポーの一族』への思い入れはあまりないほうだと思う。
とはいえ萩尾さんの繊細な線で構成された優美でほの暗い空想世界の雰囲気はわたしなりに素敵なものだと感じて心の宝箱に入れてはいたので、宝塚での舞台化に際して、一対どのようなものができるのかという興味はあった。

それに無論、あの「エリザベート」でわたしを興奮の渦に引きずり込んだ小池修一郎さんは「ポーの一族」を演出したいがために宝塚に入ったらしいのだとか、さらに萩尾望都さんが舞台化するならこの人しかいないと見込んで、現代で唯一、小池修一郎演出の宝塚版にだけ舞台化の許可を出したのだとか、そういった逸話がどこからか聞こえてくるだけでも期待感は自然と煽られた。

今回はいったいどんな舞台になるのだろう、と思いながら映画館に足を運ぶ。両側に座るのは、既に何回も公演を観劇していることを前提とした会話に興じる、見知らぬ宝塚ファンの方々。わたしは十分楽しめるのか、いささか不安に感じながら座席についた。


幕が開き、フリルやレースをふんだんに使ったドレスをまとった人びとがずらりと舞台に並んだ画を見た瞬間、何か熱いものがわたしの中に沸き上がった。その美しい人たちがいっせいに歌い始めて、物語が何も始まっていないのに、わたしは既に泣いていた。

さすがにまわりの宝塚ファンの方は身じろぎもせず画面に集中していた。このような中では涙をぬぐう仕草すらもはばかられ、涙で視界がぼやけた。だがすぐに、泣くことにより一瞬たりとも見落としたくないその姿が見えなくなり始めていることに気が付き、わたしは懸命に涙をひっこめた。


明日海りおさんは、美しかった。あの美しい人が実在の人間であり、ポーの一族エドガーのなりをして動いたり、歌ったり、しゃべったり、笑ったり苦しんだりしてくれていること、それだけのことに感謝の念が溢れて泣いた。
もとは人間の方なので欠点はあったのかもしれない。だがそれすらも克服して美に替えている。「あの宝塚」であるから、アングルまでも計算され尽くした映像だったのだろうか。とにかくそのお顔が、顎から首のラインが、ほそい身体をさらにすらりとはかなげに見せる衣装が、すべてが美しく見えるよう考え抜かれた角度で観られることが幸福だった。
美しく冷たく歪む口もと。美しく苦しげに細められる目。この世ならぬ美しさを体現していながら、そうであるからこそ、生きる苦しさからは逃れられないのだと伝えてくる。

 

柚香光さん演じるアランと惹かれ合うシーンもたまらなかった。まだ愛ではない、まだ友でもない、ただこれから共に生きる相手となるかもしれないという、予感めいた親しみと、僅かな不安。信頼感とは似て非なる、薄紙一枚を隔てて手前にいるような、恐怖。はあ、昨日みたばかりなのにもう記憶が薄れているのが辛くてならない。これは宝塚ファンでなくても通う気持ちがわかります。

畳み掛けるように豪華な衣装を着た人々が次々に現れては踊り、舞台の画面を飾っていく、そのなかでひときわ輝くトップスターの姿。漫画だったらページをめくる手を止めてずっと見つめていられるのに、一時を過ぎれば目の前から消え去ってしまう儚い華。そうであるなら心の中にずっと留めましょう。よるべとするものは宝塚のこの世界しかないのだと、信じさせてもらえただけでも有難い。

 

この公演を期に退団される方が4名いらしたので、そのご挨拶まで聞き届けて帰ったのだが、まあなんと宝塚とは特別な場所であることか。インターネットから宝塚を知ると、きれいなもののきたないところを言い立てて征服欲を満たそうとする者が先に見えてしまうけれど、そうではないのだ、と思う。それをきたないと言うのはただ、何も知らない子どもの潔癖さであって、大人になった女たちがきれいでいることの、支えとしての美こそが、宝塚の尊さであるのに。