耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

「わたしは真悟」感想

 クリスマスも京都はいつもと変わらぬすまし顔だった。高く、雲一つない澄み切った空に飛行機雲が短く切れている。カレンダーに恵まれたクリスマス連休の締めくくり、ひいては今年の観劇生活の締めくくりとして京都ロームシアターへ「わたしは真悟」を観に行った。

 京都駅からバスに乗ること数十分。余裕をもって出かけたつもりが、道が混んでいて会場入りは開演十分前になってしまう。
 ロームシアターへ来るのは初めてだが、近くへ来たことは何度もあり、場所も良いし新しい綺麗な劇場だろうと気になっていた。しかし、わくわくしながら入場するなり、思わず足がすくんだ。
 明らかに普段行く劇場と客層が違う。ロビーのそこかしこで輪をつくって笑いさざめいているのは10代~20代前半とみられる集団。まちがえてどこかの大学サークルのクリスマスパーティ会場にまぎれこんでしまったのだろうか。そう思ってきょろきょろすると、楳図かずおイラストのあしらわれたグッズ売り場とのぼりが目に入り、私は間違っていないのだと知る。
 ミュージカルとはいえ宝塚や劇団四季出身の役者さんが出てるようなやつじゃないし、題材も題材だからな。しかもクリスマスだし。連休最終日だし。京都だし。さらにこういう空気の場所にくるとどうも学生時代の教室やら廊下やら食堂やらで常に感じ続けていた居心地の悪さがよみがえってくるようだ。幾重にも折りかさなってくるアウェイ感に戸惑いながらも、平静な顔を装って座席に着く。
 劇場は自分で自分の場所をみつけられない人間にも、チケットが居場所を与えてくれるから好きだ。


※以下の文章にはミュージカル「わたしは真悟」の内容の詳細に言及する記述を含む可能性があります
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 「わたしは真悟」本編でも、孤独な真悟に向ってしずかという女の子がふいに発する台詞に突かれた。『かわいそう。ひとりはつらいもの。』
(うろおぼえなのでちょっとちがうかもしれない。)

 ロボットである"真悟"は開発者ですら計り知れない"意識"を持って動き出したがために危険視され、"おとな"に追われることになる。さとるとまりんから"コトバ"を教えられたことにより"意識"=ワタシが生まれたという真悟は、離れ離れにされた父さとると母まりんの愛を伝える媒介になろうとするのだが、その過程でまりん、さとるを救うためにみずから傷を負う。

 全編を通して強く印象付けられるのはイノセントな愛への郷愁。小学校六年生のまりんとさとる、そしてしずかを演じる三人の高い歌声と、不穏なメロディの運びがその想いを彩っている。
 観ながら私自身が小六のときを思い出してみたのだが、確かにその時期は、おとなになった私が「初恋」だと思っている恋をした年だった。
 ただ、その「おとなになった私が初恋だと思っている愛」はこの作品の証明している「イノセントな愛」とは全く別のものだったと思えてならない。

 真悟は、コトバが先にあり、意識が生まれた、と、言う。
 おとなになってから思い出にできる恋は、やはり渦中にあってすら「言葉のある恋愛」にすぎなかったと、私は今思い返す。

 愛されることの見返りも、相手の眼に映る自分の姿も、何も考えずに人を好きでいられた時期のあまりにも短かったこと。そしておとなになってしまえば、そんな気持ちがあったこともなかったことになってしまうのだ。だってそれは、意識が生まれる以前の愛だから。
 エンディングで歌う三人の光景はあまりにも美しくて不思議な暗闇の中へ消えていく。それはたぶんこの世界にはどこにもない場所で、おとなになってもこの世界にい続けるまりんとさとるの肉体からは消え去ってしまうのだろう。

 だから、本作品のしずかのような少女の歌は、かえって共感とともに胸に突き刺さる。それはさとるとまりんの間にあるものとは対照的に、エゴが先にくる恋だ。わたしをみてほしい、わたしはここにいる、わたしをひとりにしないでほしい。それを否定せず、真悟に寄り添わすのはこの作品のやさしさだとは思うのだが、結局しずかが最終的にどうなったのかちょっと記憶にない。

 では、意識が生まれると同時に「生」を受けたロボットの真悟はなんなのだろう。
 生命が先にあって意識があとからくる、という順序は人間にとって抗いようのないもの。でも、真悟は、生命ではない。
 ただロボットとして、人間を超越した能力をもって、真悟は世界とつながることができる。一つの点であった真悟が、父と母を結んで三角になり、無数の生命の点とつながっていつしか大きな円になる。

 機械の力で世界中とつながることができるところにいま私たちはいる。他者の感情も思考も自分のものと混ざり合い、境界は溶け合って、一つの点では成し得なかったものを成すことができる。
 そんなふうに時代が変わる前と同じように、憎悪や怒りはこの地球にあり続ける。でも、「自分」を守るために他者を傷つけることが、自分を傷つけるかのような痛みを伴うようにもなったのは、繋がったがゆえのことでもある。
 そこに私は、現代の救いのようなものを見ることができる、と、思いたいのだ。