耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

ストーリー・オブ・マイ・ライフ わたしの若草物語

若草物語』『続・若草物語』を原作にした2019年の映画を見た。南北戦争下のアメリカ北部で育ったマーチ家の四姉妹、メグ、ジョー、ベス、エイミー。この映画では『若草物語』を下敷きにした少女時代のエピソード、『続・若草物語』を基にした青年期のシーンを交互に対比させながら、成長しても変わることのない彼女たちひとりひとりの人物像を浮かび上がらせる。と同時に、女が年を重ねることで否が応でも迫られる人生の変化や選択について、同じ家に育った姉妹たちが対照的な道を選ぶ姿を描く。

 

彼女たちの少女時代を描く、どこを切り取っても美しい映像を見ていて、自分がおとなになる前の気持ちを思い出す。ずっと少女でいたい、恋なんてものはあこがれや物語の中だけのものにして、現実の生活や他人の人生に責任など負わずに自由に生きていたい。でも、だからこそひとりで都会に出て、結婚せず自分の筆一本で身を立てようとする、おとなになった次女のジョーの姿に心をつかまれる。自分の能力で人生を切り開いていく強さ。その高揚。

でも、現実生活に参加する女の生き方(たとえば結婚のように)の息苦しさを覚悟したからこそ得られるよろこびだってある。と、メグを見ていて思い出す。ジョーが自分の力で身を立ててひとりで生きていこうとする一方、姉のメグは好きな人とめぐりあって金銭的には恵まれない結婚をするのだ。ただでさえギリギリの上に双子を育てる生活は苦しくて、洋服を買うことすらままならない。姉妹が大好きなジョーは結婚なんてせずに逃げようと言ったけれど、メグは貧しくてもお互いに欠点を受け入れて支え合える人と巡り会えたのでけっこう幸せそうだ、というふうに描かれている。ジョーの生き方にもメグの生き方にも、どちらにもそれなりの幸福と苦しみがある。どちらを選んでも、あるいはどちらも選ばなくても、また別の人生がある。

ジョーとの対比でもうひとり描かれているのが末っ子のエイミー。原作を読んだときは姉たちをよそに一番うまいことやっているようで好きになれなかったし、じっさい子ども時代のジョーもそういう目で下の妹を見ているのだけど、この映画のエイミーはエイミーなりに、姉のようには生きられないコンプレックスみたいなものがあるのがわかる。絵の表現をする世界で生きていきたいけどジョーほどのバイタリティで創作には向かえないし、恋愛だって夢に描いたようなものではない。大好きなローリーは姉のジョーが好きだからだ。それに現実的なエイミーは、恋愛と生活を切り離して考えることもできない。むしろ姉のようには生きられない自分の限界が見えているからこそ、女の生存戦略として結婚を選ぼうと考えている。
幼いころ馴染んだ『若草物語』の続編をわたしが読めなかったのは、このエイミーがローリーと結婚する展開がどうしても受け入れられなかったからだった。ローリーはジョーとでしょ!?と思っていたから。でも、好きだからといって恋人になれるかと言えばそれはちがうのだ。どうしたってそうなのだ。さらに言えば、ただ性別が違うだけのふたりの間に、他の誰も入り込めない絆があったとしてもそれが異性愛的な恋愛だとは限らない。

ローリーがジョーに想いをぶつける場面を見ながら、どうして世界はこんなふうにできているんだろう、と泣きたくなる。どうして男と女が唯一無二のパートナーでいるためには、異性愛的な結びつきが必要なんだろう。どうしてずっと子ども時代みたいではいられないんだろう。どうして人は変わってしまうんだろう。

愛があれば望んだものが手に入るとは限らない。すべての人生がおとぎ話みたいだったらいいのに、現実はそうではない。エイミーが姉妹喧嘩でジョーを傷つけるために原稿を焼くシーンは、ある意味象徴的だ。エイミーにはお話なんていらない。

 

それからもう一人の妹ベス。子どものころは引っ込み思案で、でも最も人への思いやりを持っている子だったけれど、身体が弱く、遂には命を落としてしまう。他の姉妹たちの人生は続いていくのに、いちばん他人のことを思っていた彼女の人生だけはその先がない。
少女時代の美しい思い出のある海辺で、ベスがジョーと別れの言葉ともいえる会話を交わすシーンが悲しくも印象深い。本人はもう長らく患っているから自分の死を受け入れる段階に入っているけれど、まわりの家族は受け入れられない。
幸福な時間があまりにも美しく、永遠に続いてほしいと願うからこそ、それが叶わない世界はなんて残酷なものかと思う。
ベスの死は取り返しのつかない少女時代の喪失だ。どんなに願っても絶対に妹は帰ってこない。独りで生きると決めたことに迷いが生まれても、自分を好きだと言った人に「あなたを愛せない」と言ってしまったことは取り消せない。姉妹たちは大人になって変わっていく。
そしてそのことが、ジョーを書くことの熱中へ駆り立てる。放っておけば失われて、無かったことになってしまうかもしれない過去の物語、確かにあった自分たちの姿を、書くことで繋ぎ止めようとするのだ。

 

書くことは真実の吐露であり、同時に嘘をつくことでもある。
この映画の中でジョーは(ジョーの姿に重ね合わせられた原作者のオルコットは)、ある意味で現実的な生活のために、つまりは本を売れる物語にするために、ひとつの嘘をつく。その裏の姿を現代のスクリーンで表現することは、作り手として今の時代に女性の生き方を描きなおそうという堂々たる宣言のようにわたしには思える。わたしたちは本当は好きなように生きていいんだということの。