耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

ミュージカル エリザベートについて

 一体トートとはなんなのであろうか。ミュージカル「エリザベート」の話である。

 ドイツ語の意味を調べるとTod=死、ということらしい。この物語に出て来るトート閣下は寓意的な存在なのだろう。ならば、観ている私が感情移入する対象がヒロインのエリザベートである限り、トートは彼女の心が作り出した幻影と考えてもいいと思う。だからこそトートはエリザベートの人生の要所で顔を出し、彼女の生き方そのものを揺さぶり、問いかけ、誘惑し、促す。一方で、子との死別といった悲劇の極致にあっては、その原因をトートの存在に転嫁することができる。死神をトートのような美しい男性の姿で具象化することで、憂世の辛さに耐える自分の人生を、誘惑と戦う自分の意志の強さではねのけるという物語に置き換えることができるからだ。


 いつか夢で見たとしか思えない人が、いつまでも忘れられない。そして自らの作り出した理想的な愛の対象が大人になってからも自分自身の人生に影を落とし、支障をきたしてしまう……。そうした夢見る少女症候群の罹患者は重軽症含めて世間に相当多いのではないだろうか。「エリザベート」を見て思わずそんな思いをいだく。それほど舞台上のトートは美しく、現実離れした色気で魅了する。まさに作品の中にしかありえない存在なのだ。
 実際、創作された物語には「ヒロインの私を、少女の頃から愛し見守ってくれる素敵な大人の男性」という構造が頻出する。スカーレット・オハラにはレット・バトラー、クリスティーヌ・ダーエにはファントムである。源氏物語は古典の授業でしか読んだことがないが紫の上と光源氏もそれに類するもののような気がする。また、ガラスの仮面やエースをねらえなどの少女漫画にもこの手の大人の男性がいる。ヒロインは同世代の男子と年相応の恋愛もするのだが、それすらも嫉妬交じりの視線で一歩引いて見守ってくれる。そしてヒロインの方はといえば、憎しみ交じりの感情をも経て本当に自分を理解してくれている人は彼なのだと気づくところまでお決まりの流れだ。

 少女たちに消費されてきたこうした物語の背景にある種のファザコンのような欲望が隠れているものと考えてみると、「エリザベート」にもまた当てはまる。エリザベートは幼少時から自由奔放な「パパの生き方」に憧れていることは作中で明らかに示されており、トートという幻影を作り出すのにも父親の影が一役買っているのかもしれない。

 あるいはもっと象徴的に、「年上の男性」とは女性が自立してポジションを獲得するために克服すべき「社会」を現したものと考えることもできる。

 トートを作り出したエリザベートの生きづらさがどこにあったのかといえば、社会と自分自身との間にきたした齟齬だ。自由にやり放題にしたい我儘な性格なのに、持って生まれた容貌ゆえに規律の厳格な宮廷生活に放り込まれる。子どもすら姑に取り上げられて、彼女の生きがいにはならない。自分が他者に求められるのは容姿だけなのか……? そう思ってエステや体操に励んでも、時が経てば衰える。

 晩年のエリザベートが鏡を見るのを拒み、自分自身と向き合うことから逃げるように各地を放浪するシーンがある。彼女は「自由にやりたいことをやる」と言ったけれど、では彼女のやりたいこととはなんだったのか。
 もしかするとそれは彼女自身にも、最後まで見つからなかったのではないかと思う。自分の意思すら規則を理由に封じ込めて、誰にも認められることなく、大好きな詩の世界に閉じこもり、旅先の地で孤独に死んでいく。

 観客は――というより私は、こうした悲劇のヒロインの姿に自分を重ねる。成功でも勝利でもないただの人生が、美しい舞台と音楽に昇華されていることに歓喜し、そして涙を流すのである。