耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

ルキーニについて

ルイジ・ルキーニとはなんだったのかということを考えている。
ミュージカル「エリザベート」の話である。

先日エリザベートを初めて観劇して、いちばん驚いたのはルキーニの存在感だった。私がCDをもっとまじめに聴いていれば驚くほどのことでもなかったのだろうが、それにしてもこの舞台の主役はルキーニなのかな?と思ってしまうほどの出ずっぱり。ルキーニは観客と舞台上の世界を繋ぐ狂言回しといった役割なのかと思えば、1幕、2幕の導入部や、年月や場所が飛ぶなどいささか唐突な場面転換にいるのはなんとなく理解できると思っていた。ところが、死したエリザベートとトートが二人で光の中へ消えていく、まるで一枚の絵のような華々しいエンディングにすら首を吊るルキーニが登場している。あくまでもこのお話は、最初から最後までルキーニによるものだったのだと示される。

とはいえこのルキーニ、旅先でエリザベートを刺殺するその瞬間まで、彼女の人生には全く関与していない。勝手に絵皿を売ったり写真を撮って売ったりしているだけである。考えてみれば貴族でもない一般人であり、エリザベートと関わりがあるはずもない。かと言って、政治的な理由で皇帝一家に特別な感情を抱いていたわけでもないように思える。カフェのシーンでも大衆をいささか冷めた目で眺めているようで、特段の政治的主義主張を持っているわけではない様子だった。
(余談だけれど、カフェでさりげなく店員役を演じているルキーニの恰好がしましまの服に、ギャルソン風エプロンで、思いがけずとてもかわいかった。)

「ミルク」や「HASS」では民衆の怒りを煽るような素振りを見せるルキーニだが、どこかふざけたような、一歩引いたところで冷酷に状況を観察しているような振る舞いに見える。飢餓も貧富の格差も彼にとっては切迫した問題ではないのだと気づかされる。
そこで思い出すのは、この舞台はルキーニが亡霊たちを操り語る、昔語りだという冒頭の設定。どこかルキーニが物語から浮いたように見えるのはそれが理由なのだろうか。なぜならこの大掛かりな夢を仕掛けているのはルキーニ張本人だから。彼が衝動的にエリザベートを刺した理由を、後付けのように正当化しようとして語った、ルキーニの想念の中にだけ存在する「真実」。

終始人を食った態度のルキーニ。彼自身が非難するのは、皇妃としての義務を果たさず国を顧みなかったエリザベートではなく、あくまでも母として女として人間として破綻をきたしているエリザベートの人格そのものである。だから彼女は死神に魅入られた、だから俺は死神に代わって彼女に手を下した…と。

最後の場での成河さんのルキーニの演技は忘れられない。エリザベートを刺してから、倒れていく彼女の身体を凝視し、無意識なのか(というのも演技なのだけれど)執拗に顔をこする仕草をする。狂気なのか冷酷な思い上がりによる断罪なのか、単なる欲望の衝動か、それともルキーニもまた死に魅入られていたということなのだろうか。きっとルキーニ自身にもどうしてそうしたのか分かっていない。だから彼は作り出した、愛だの死だの、そんな夢物語のような空想を。

東宝ミュージカルを見た後、ウィーン版のDVDを見たが、こちらのルキーニはもう少しカラッとした明瞭さがあり、最終的には黄泉の帝王たるトート閣下に誘惑されて従わずにいられなかった…というように見えてこれまた魅力的だった。

しかしこれら私の頭の中で作り上げたイメージはいずれも、時を経るごとに崩壊しては構築を繰り返すだろう。そうする過程の楽しさこそ、物語の中に繰り返し没頭したくなる理由の一つなのだと思う。