耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

梅芸エリザベートの思い出(1)

 

 

9月24日土曜日 夜
キャスト
エリザベート:蘭乃はなさん
トート:城田優さん
ゾフィー:香寿たつきさん
ルキーニ:山崎育三郎さん

博多座から約一か月ぶりに「エリザベート」を観て、またずいぶんと物語の捉え方が変わった。城田さんのTwitterを見ていると、どうやら演じるときの心の在り方を変えたようなのだけれど、確かに無表情で得体の知れぬ存在だったトートがどこか人間味を増した存在のように見えた。

『愛と死の輪舞』ではシシィの目を見た瞬間に目を見開き、彼女に惹かれた瞬間が表現される。そのままシシィを抱き上げてベッドへ運ぶ姿には堪えようもなく乙女心を刺激された。またその後、山崎さんのルキーニが茶化さずにしっとりとナレーションを入れるので、なにか素敵な恋物語を見ているかのようだった。「死」そのものや死神というよりは、何か深い業のようなものを背負って永遠の時を彷徨う哀しい男と、刹那的な今を生きる女性のロマンスなのだと思った。

以前は乱暴に弄ぶかのように見えた蘭乃・城田組の『最後のダンス』では、エリザベートの身体に触れるしぐさがより強調されているように感じた。トートが皇后にダンスを迫る場面は全篇通して複数回あり、そのたびにトートの白い大きな手が彼女の手首の一番細い部分を掴む。耳元に顔を近づけ囁き声を遣うのはちょっとずるいと思いつつもときめいてしまう。無垢な少女がこんな大きくて力強くて美しい男に抱かれれば、恐怖と官能で震えてしまうのも無理はない。実際、そのふたつの感覚はときどき驚くほど似通っているのだから。しかしその後、『闇が広がる』で「二人で踊った婚礼の夜を覚えているだろう」とトートが歌うとき、彼のなかではこの夜がエリザベートと過ごしたかけがえのない思い出になっていると気づかされ、少し切なくなる。愛するものと愛されるもの、男と女、自分と他人、両者の間に存在する埋めることのできない断絶。世界を思うままに操るトートであっても、思い通りにならないものがこの世には存在してしまうということ。


他人との間にできる溝といえば、夫フランツのことに思わないわけにはいかない。母親に従順に操られるかのように育てられてきたためなのか、子どものころから皇帝として君臨すべく教育されてきたためなのか、彼自身が他人に接するときに相手の人格と対等に向き合うことはない。 妻を愛していたのはきっと本当なのだろうけれど、フランツが見ているのは結局妻の美しい容姿だけ。 「要求する側」「要求を呑む側」という一方通行の関係性のみを築こうとすれば、結婚生活が不調をきたすのは自明だ。とはいえそれはフランツだけが悪いわけではなくて、歩み寄ろうとしても擦り合わせようとしても、エゴイストのシシィなら突っぱねていただろう。はじめからうまくいくはずのない二人と言われればそれまでなのかもしれない。

しかしどうもかわいそうなのが、田代万里生さんの演じるフランツが、誠実でシシィを好きでたまらないのが伝わってくるからだ。 何より好きな人を請う歌がうまいし、『暗殺』の場面の苦悶は壮絶である。愛する人が目の前で殺されるというのに阻止する術も持たず、無様にあがくことしかできない。その上、死後に至ってなお地獄の裁判のためにその再現映像を繰り返されるのだ、百年もの間、毎晩毎晩。

そもそも結婚前から「自由」を口にするシシィを案じて、彼は皇帝の義務を説いていたのに、頭の中がお花畑になっていて話を聞いていなかったのはシシィの方である。こんなに思いやりがあって妻を愛している善き夫なのに、風俗へ行って病気をうつされるなんて信じたくない。「陛下とて男です」とか言われても、全然納得できない。実際、『マダム・ヴォルフのコレクション』のシーンにフランツは出て来ないのだし、フランス病の感染は皇后にそれを告げるトートの法螺と受け取ることもできる。
でもやっぱり、フランツはシシィに見えないところで「男の社交場」に行っていたという気がしてしまうのだ。そしてシシィが宮廷に寄り付かなくなると見るや、自分の行動は棚に上げてゾフィーを責めるほうに回ることから見るに、罪悪感すらあまり持っていなかったのではないか。そこには抗いようのない価値観の相違がある気がしてならない。

『悪夢』でフランツは「彼女のためすべて与えた」と言うし、 『夜のボート』ではシシィに対して「あまりに多くを望みすぎるよ」と漏らす。ただ、フランツは与えたつもりでも、シシィは結局彼から何も得ていない。おそらくシシィがほしかったのは、義務や役割を果たさなくても無条件に得られる、他者からの肯定感のようなもの。彼女が求めるままにフランツは与えているように見えるけれど、そうではないのだ。
彼女が他人に評価される美貌ははかなく不安定なものだし、皇后の役割を演じる社会的な自分と、彼女自身の内面に存在する「私」は、歳を経るごとに乖離していく。そうしてエリザベートの「私」は次第にこの世界に居所を無くしていく。

フランツは妻を手に入れられなかったし、トートもまたエリザベートの愛を手に入れることはできなかったのだと思う。ラストシーンでエリザベートに抱きつかれて、トートが驚いたような顔をしてゆっくりと抱き返すのは、ずっと求め続けたものが手に入った驚喜とも取れる。でも、彼女のなかにあった「私」は死によって永遠に失われてしまった。うまくことばにできないのだけれど、生前のエリザベートは現世のしがらみにも、死の恐怖にも、なにものにもとらわれない「私だけの中にしかない世界」を求めることによって「私」を形成していて、それを求めることを止めてしまった彼女はもう、「私」ではない別のものになり果ててしまっている。だから、トートは最期に至ってようやく、取り返しのつかないことをしてしまった喪失感に涙を流す。

無表情で彫像のような美しさを誇っていた先月の城田さんの演技が好きだったけれど、最後のシーンでトートが見せた表情には思いがけずがつんと胸を突かれた気がした。
冒頭の『私を燃やす愛』で 「ただ一つの過ちは皇后への愛だ」と歌われるくだり、この世ならぬ者が生ける人間を愛してしまったことが過ちなのだと今まで思っていたのだが、それだけではなくて、愛してしまったゆえに命を奪ってしまったことが、過ちだったのだと今回の公演で気がついた。

ひたむきな愛はこれほどまでに美しいのに、すべてを手に入れたいと望むのなら、それは決して叶わない。皇帝でも、死神でも同じなのだから、これはきっと普遍的なものなのだろう。