耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

過去の日記を読み返す

実家の部屋を整理していたら、大学生のときの手帳が出てきた。

スケジュール帳にその日の日記を書く、という習慣はそのころ始めた。働きはじめるより時間があった分、細かな文字でびっしりと書きこんでいる。我がことながら暇だったのだろう。生活がルーティン化していなかったことにちょっとした羨ましさを覚える。
一方で、10年前の3.11の日記などを見てみても他の日とそう変わらない日常のちょっとした記録(食べたものや、眠った時間)があるだけで、大したことは書き残していない。せいぜいニュースを見て驚いたと書いてあるくらい。当時大学生で就活を始めてはいたものの、社会で起こった大きな出来事と自分の生活とを結びつける感覚がさほどなかったんだろうなあ。自分が関西に住んでいて、東北や東日本に知り合いがいなかったこともあるのだろうけれど。

当時は大学卒業後に向けて就職活動をしていた。就活のころの日記を読むと、案外そのころ望んでいた暮らしはできているのかなあと思う。それは一方で、その時点で見えていた範囲の理想しか叶えられていないということなのかもしれないけれど。社会に溶けこみ、他人に文句を言われないために働く、という考えを疑いもなく抱いていた。プラスアルファで、住まいやファッションや趣味のちょっとした贅沢にお金を使えたらそれで幸福。いまの自分はその価値観の延長線にいるにすぎない。

 

読み返していて案外おもしろかったのは、当時よく行っていたお笑いライブの感想がぎっちり細かい字で書き込まれたページだ。大学2年生くらいのときは若手芸人のライブに月2回くらいのペースで通っていた。自分の感想というよりは、どんなネタやトークをして、誰が一番ウケていたかといった記録が中心に書かれている。いまでは全国ネットのテレビや賞レースで活躍している芸人、関西ローカルだけで見られる芸人、テレビでは見かけない人、それぞれいるけれど、彼らの十年前の活動の記録としてなかなか興味深いものがある。最近売れはじめてから初めて名前を覚えたと思っていたのに、実はずっと前に見たことがあったとかね。

逆に見たくもない苦痛な記述は、自分の当時の恋愛について事細かに書いた箇所。でも書いた当時はこういう記述がいちばんたのしかったのだな、ということだけはひしひしと伝わってくる。感情が盛り上がっている渦中だから。うれしかったことを書き残す瞬間、そしてまた数日後に読み返して反芻する瞬間で、幸せを何度も味わえる。でもその当時の恋人と別れて冷静になり、なんで好きだったのかサッパリ分からなくなった今では、もはや気持ちが悪いといっても過言ではない。その経験もあっての今があるのだとは思うから、付き合っていたことそのものに感謝はしていても、具体的なことは思い出したくない。墨塗りにしたい気分だ。

そこにいる自分が今よりもずっと若くて未熟だからなのかもしれない。でも、他の事柄についてなら若くても未熟でも、そういうものだよなあと思えるのに、なぜ恋愛だけはこんなに痛々しく感じるのだろう。相手が変わっていまの夫と付き合い始めたばかりのころだって、同じようなことを繰り返していたのに、それに関してはさほど気持ち悪くない。と、いうことは、やっぱりもう何の感情もない人間との濃厚な思い出だから、厭わしい、ということなんだと思う。過去のわたしは今のわたしとは別の人間、と思うこともあるけれど、やっぱり地続きになった同じ人間でもあるわけで、割り切れない。

 

というわけで、なんとなく残したいところだけiPhoneでスキャンしてevernoteに放り込み、過去の手帳はゴミ箱に入れて捨ててしまった。うっかり残しておいて数年後に家族に見られたりしたら嫌すぎる。無事に燃やされているといいのだけど。

ちなみに今も日記をちまちま書く習慣は続いている。が、大体がevernoteの中にあるので、突然わたしの身に何かあったとしてもサーバーの中に置き去りになるだけだ。そしてサービス終了とともにデータも消え去る。それで良い。

先述したように紙で残すと見られるリスクもある。逆に、いつか見られても笑いの種になるようなゆるふわ日記だけを5年連用日記に書いて、ベッドサイドに置いている。