最近のようす
何気なく本買ったらしおりが貰えて夏を感じる7月。
↓発掘された過去のキュンタたち
関係ないけど手持ちのしおり(海外の美術館かどこかで買った古代猫・鉄オタ3歳児にうらやましがられる阪急電車グッズ)
しおりコレクション、まだまだあるけどきりがないのでこの辺りにしておきます。
小説・エッセイ・新書
『太陽諸島』多和田葉子
物語も読者の感情も、海の真ん中に放り出されて終わった気分なのだが、まさにそれこそがこの三部作の答えなのだな……と腑に落ちている。問いをつくってはその都度なんらかの「気づき」をひらめきのように得ては修正する、そのことの繰り返しこそがわたしにとっては多和田作品の読み方なので……。気づきや思い込みを他者との遭遇のあいだに断続的に繰り返していくことこそが人生というもの。わかりやすいピリオドとか、定住とかではなく、境界を問い続けること。国と国の境界、自己と他者との境界、言葉が表すものの境界。家とか性別とかいう普遍的なものの定義がますますこれらの問いの中心になってきているのは、だれもが無意識のうちにでも境目というものを疑問に感じるようになってきているから。だとすると、多和田作品にはいつまでもインターネットが現れることはないのだろうか。
『森があふれる』彩瀬まる
妻をネタにして恋愛小説を書いてた小説家の妻が森になってしまった。傍観者であり・ある意味当事者でもある編集者たち(男女それぞれ)、そして夫妻それぞれ自身の言葉で向き合っていく過程を描いた小説。
夫婦関係とか男女が対等であるべきという理想について語る時、この口から出る言葉たちが必ず偏ってしまうことを自覚しながらも、語ろうとすること、省みることをあきらめないこと、だけどもことばで語ろうとするとすわりのいい常識の枠にいつのまにか陥ってしまうというジレンマ。そういう堂々めぐりのがんじがらめの蔓から何度も何度も逃れようともがいた痕跡が見えて、その著者の覚悟が胸を打つ。だからそこには開かれた問いがあり、だれかの頭によぎりながらも言葉にならずわだかまったままの疑いをひっぱりだすのだと思った。
『青い麦』シェリ
若い男女の恋愛を描いたのであっても、幼馴染の友だちだったふたりがやがて互いの感情を読みあって複雑な駆け引きの会話のとっくみあいをするようになるスリリングさに、恋愛おんちのわたしは呆気にとられたような気持ちで眺めた。
主な物語の展開はフィリップ*1少年によりなされるものの、巧みな転換により自然に男女双方の心理が描写される。描写の分量としては少ないはずの〈ツルニチニチソウ〉の目をもつヴァンカという少女、彼女の芯の強さが印象深く、つよく惹かれる。〈岩の巣〉の場面、わたしなどは、もっと殴ってやれ!海に棄ててやれ!と思ってしまったけれど、最後の場面までを読むとこの〈フィルとヴァンカ〉のパワーバランスの駆け引きはこれまでも続いてきたし、これからも色を変えながら続くのだろう、老年になってもそうしながら毎年海のそばの別荘を訪れるのだろう、と予感させる。
そう、何よりも、このフランスの海辺の別荘地の夏というロケーション!これを描く文章がふたりの関係を演出するのが素晴らしく、うっとりとしてしまう……。
解説は鹿島茂氏、「若者どうしの恋愛」という現代の我々にとっては一見当たり前のように思える小説がなぜそのとき書かれなければならなかったのか、そしてなぜ古典として読み継がれているのか?という疑問、そしてなぜ年上の女性という存在が必要だったのか?という疑問(たしかに、普通に読んでいてもこの女性の登場がいささか唐突なうえに謎めいていると感じられた)に対し、フランスの恋愛の「伝統」にもとづいて答えていて、小説の解釈というよりは博覧強記の氏ならではの語りという感じでおもしろい。
『やがて満ちてくる光の』梨木香歩
梨木さんのエッセイを読む時、日常の生活の繰り返しにたいする(怠惰さも含めて)受け入れるようなまなざしの柔らかさとともに、精神世界を研ぎ澄ますための努力を、果たして個人としての意識を持ってできているか?という妥協のない、背筋を正されるような感覚がある。その妥協のなさというのは、おそらくはご本人はご自身に向けたものであったろうけれど。
M氏の家の話を読んでいて、梨木さんのルーツが神学専攻にあったのだ、ということを初めて知り、腑に落ちたような感じがあった。まさに日常に根ざした信仰というものを礎として目指していらしたということも。この家の話は筆者の個人的な死者との対話という努力、そしてめぐりあわせの妙とも相まってまるで物語のようなエンタテインメント性をも備えている。
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』三宅香帆
WEBで連載開始したときSNSで見ていて「なぜ現代人の我々が本を読めないのか」を知るために明治まで遡るんだということを意外に思ったのだけど、そもそも読書というメディアが階級差を誇示する手段として使われがちな側面を明らかにしつつ、いつから国民全体に開かれたものになり、そして今閉じた趣味になりつつあるというところを広範囲にわたる参考文献をもとに詳らかにしていて納得させられる。とにかく漱石から箕輪までをカバーしてる参考文献リストの幅広さに著者の本というメディアそのものへの愛を感じた。
個人的に好きだったのは、特権階級でもなければ文化資本もない、だけども知識への意欲がある普通の市井の人々のことを蔑視するという読書家が陥りがちな優越思想を、本書が明確に批判しているところ。本たくさん読んでるからってえらいわけじゃないでしょ?ってめちゃくちゃ本読んでる人にしか言えないメッセージだ…
読めないのは怠惰なせいではなく社会のせい、とするやさしさの一方、半身の働き方をする工夫はみんなでやっていこうね、というある種の厳しさもある。たとえば家人の稼ぎで十分暮らしていける人間にたいして、それでも自由や自立のために働こうよ、と促すのがある種の厳しさであるように、半身の働き方をするためには各々自分のやってる仕事を整理・調整する使うべき労力の転換は必要になるよね?と言われているようで、身が引き締まりました。
『ある晴れたXデイに』カシュニッツ短編傑作選
確か藤野可織さんのインスタで挙がってて買ったと思うのですが、カシュニッツ傑作選これは実は2巻目だったよう。この装丁画の不気味な雰囲気があまりにも作品とマッチしていて手に取らずはいられなかった。
『結婚式の客』
素晴らしい小説。だけどこの作品に限らず結末で小説の味わいそのものまで種明かししてしまう傾向がちょっとある気がする。
『旅立ち』
カフカのような不条理な空気を感じて読みながらも、絶対に何か時代背景があるはず(作者がドイツ在住で1950年代前後に創作していたならほぼ間違いなく戦争だろうけれど)と思いながら読んでいたので訳者あとがきの存在が有り難かった。
『作家』
先日『森があふれる』を読んだばかりだったので国は違えども作家と妻の関係が"すれちがう"ものから"向き合い、対話しつづける"ものに変わるまで一世紀近くを要したんだなと思ってしまった…………
『トロワ・サパンへの執着』
この、古き良き美しい建築物を熱愛し執心しているからこそ“私が”燃やすことで永遠になるのだという思いこみからくる罪を題材にした小説って何が起源なんだろう。三島由紀夫?レベッカ?むしろユゴーのノートルダムドパリか?
『いなくなくなくなくならないで』向坂くじら
読んでてめちゃくちゃしんどく、自分なりの感想を書いて理解(したつもり)にならなければなんともできなかった作品。やっぱり現代の作家の本を読むのは疲れる……
映画
それいけ!アンパンマン ばいきんまんと絵本のルルン
今年のアンパンマン映画。タイトルに違わずばいきんまんが活躍してて、というか「メカに強くて何度やられてもあきらめない」というばいきんまんの強さをフィーチャーした作品で楽しかった。これまでの研究蓄積の一切にアクセスできない環境にふっとばされたばいきんまんが、ゼロから使えるものを探して道具からコツコツ製造し果ては巨大ロボットまで作り上げてしまうの最高だしサバイバル小説要素もあって面白い。
しかしここ最近かびるんるん推しの我々親子としてはばいきんまんがメインのストーリーにも関わらずかびるんるんが一切登場しないのは不満であった。てかばいきんまんのメカ実はかびるんるんが動かしているという裏設定はどこいった…?あと前半はキャッキャたのしんでいた3歳児も後半の戦闘シーンが長めでちょっと怖がっていた。映画館にいた他のご家庭も同様だったので、アンパンマンのメイン対象年齢は2〜3さいくらいが平均ピークだと思うんだけど実際制作側はどこまでその辺りを見てるんだろう、幼児たちは後半は離脱されるのが前提なのだろうか…とちょっと思ってしまった。
シャーリイ
毎年夏になるとシャーリイ・ジャクスンが読みたくなるので、これは絶対観に行かなきゃー!とはしゃぎながら夜な夜な映画館へ出かけた。
舞台
ミュージカル「この世界の片隅に」
*1:関係ないけどフィリップ・オーディベールという現代アクセサリーブランドの命名はここからきているんですか?