耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

「ある馬の物語」2023.07.23. @兵庫県立芸術文化センター中ホール

馬のようにふるまう人が、人のようにふるまう馬のように見えてくる。たった4本のサックスで奏でられる音楽が、まるで馬のいななきのように聴こえてくる。ダンスが「馬というもの」の表現であると同時に、ひとりひとりの個性や性質をも表しているのも楽しい。集団心理もあれば、馬らしく本能のままに行為におよぶこともある。ストーリーの中心にある成河氏の馬は、台詞も歌も動きも、すべてが「馬としてのよろこび」「馬としての哀切」「馬としての空虚感」「馬としての無」であって人間の感情とは別種のものだな……と感じさせ、見ごたえがあった。

馬の隠喩

わたし自身は現代の日本に生きているので、権力者に個の人生が制約されるなんて地獄だと思ってはいる。だけど皇帝への敬愛を旨として青春を過ごし、貴族社会の崩壊までを見届けたトルストイにとっては、支配される・所有されるというある種の非対称な人間関係の中でしか味わえないよろこびも、そこから放り出されたときの空虚感も確かに経験していたものではないかと想像する。

老年になって自分がわからなくなった公爵にホルストメールがすがりついて泣くシーン、めちゃくちゃ好きだったなあ。いくら大事にしていたとはいっても公爵にとっては所詮は自分が所有し・そして失ったいくつもの所有物のうちのひとつにすぎなかったのだから。

ただ、そのことに気づいてはじめて、支配・被支配の関係が平らな、ある種対等な関係性になることもできたんじゃないかなとも思う。支配者を客体化できるというのか…。パンフレットの対談で亀山郁夫さんが、去勢されて死へと向かう馬を「自滅するロシア精神」のメタファーとして読み解いてらしたのだけれど、ただ悲観的なだけでなく、再生の方向性を示すものとしても捉えられる気もする。

わたしが観たのは千秋楽だったからか?一幕の最後にあったすがすがしい山場の曲がアンコールにも用意されていて、客席の盛り上がりの爽快感とともに劇場を出られて楽しい一日だったことを覚えています。そういう感覚も作品全体への印象に影響しているのかなあ。

 

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例によって成河さんきっかけで観劇。馬なのは成河氏ひとりだけなのかと思っていたら、じっさいは出演者ほぼみんな馬で、ずっと人間なのは別所哲也さんひとりだけだった……。