耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

2024年10月に読んだ本とか

今月のようす

突然Duolingoというアプリにハマり、隙間時間にちまちまやっていました。きっかけははてなブログで購読してる旅好きの方がduolingoで好きな国の言語を学んでるというのを読んだことだったけど、わたし自身は直近で海外旅行の予定もなければ、仕事で他言語を使うとかもない。ただただゲームアプリとして楽しんでおります。初学者なのでまだ簡単な問題を正答していくだけで「ピンポーン!」と軽快な音が鳴り、得られる微弱な快楽。それでも本当に語学をやりたい人にはこれほどハードル低く継続できる仕組みはなく、よくできているなと思います。出てくるキャラも絶妙にかわいい。わたしは目つきの悪いクマFalstaffが推し。

そしてDuolingoでドイツ語を学んでいるとまた久々にドイツ語ミュージカルの音源が聴きたくなり、聴いていると観劇したくなるというループ。今いちばん観たいのはレベッカです。レベッカ観たことないんですが、Kein Lächeln War Je So Kaltという曲が好きで、これを歌うマキシム役は誰が観たいかな~という妄想を日々繰り広げるのが楽しい。

 

読んだ本

小川公代『ゴシックと身体―想像力と解放の英文学』

以前デュ・モーリアの『レベッカ』を読んだときに、これらゴシック・ホラーと銘打たれている小説が単にエンターテインメントとして感情を揺さぶりたいがためのホラーというだけではなく、実のところ現代的な価値観でみればそこには声を奪われた女たちの声が潜んでいるのでは???ということを思っていたので、書店でこのテーマの書籍を見かけて即買いしました。(といっても本書で取り上げているのは主に18世紀のゴシック小説であり、前述した20世紀のゴシック小説が扱われているわけではない)

本書は怪奇を物語る“想像力”を"生"の躍動と結び付け、幻想性とは社会的規範からの逸脱であると論じる。社会的な規範が常に倫理的に正しいとは限らないし、抑圧された者たちへ共感し、そして真の意味で生きのびる方法を探ることもまた、恐怖の源である「感受性」の賜物だとする。

既存世界に対する価値観の揺らぎもゴシックの魅力であるとするからこそ、単純な二元論で思考することができず、論述に慣れないわたしにとっては要旨を捉えづらく感じたのだけれど、それでも実際に前述したような問題意識があったために漠然と感じていたことに論拠が与えられていく感覚に興奮し、ほとんど一気読みだった。

枝葉の部分だけれど個人的にテンション上がったのが、p.191〜エミリー・ハリス監督による映画『カーミラ』(2019)についての批評部分。従来加害者側の立場であった吸血鬼カーミラが被害者として表象されている旨の解釈が提示されているが、『ガラスの仮面』で亜弓さんが演じたカーミラのことを思い出しておもしろかった。わたし自身この映画は未見だけど、本書の解釈は非常におもしろいので、かつてガラスの仮面を読み亜弓さんの手腕に惚れ惚れした覚えのある方にはぜひ読んでいただきたい〜。

 

ジュリア・フィリップス『消失の惑星』

積読から。先日読んだ『ピクニック・アット・ハンギングロック』と同じ井上里さんの翻訳だと気づいて読みはじめる。これも少女がいなくなる小説だけれど、少女の失踪を物語的に消費する感覚に自覚的であるという点において、この小説は『ピクニック〜』とは対照的。

日本から近いようで遥か遠く感じる、カムチャツカ唯一の都市で起きた少女失踪事件。同じ街に住む、少女たちとの関係の濃さも、年齢も民族的背景もさまざまな女性たちの日常の中に落ちる事件の影。

時間の捉え方は様々だ。そもそも、これほど小さな面積の土地に住んではいても、その背景に馴染んだ生活文化や祖先の歴史が多様なのである。こういった複雑さを孕む土地社会が全てそうであるとは限らないだろうが、少なくともこの小説のカムチャツカでは、民族的マイノリティの声は軽視され、とりわけ女性の立場は弱い。ただでさえ自立の手段は限られ、ほとんどを氷に覆われた地理的条件下では、どこにでも行きたい場所に行く自由がだれにでも手にできるわけではない。

丁寧に描けば描くほどに彼女らの差異は浮き彫りになっていく。あまりに違う「わたしたち」が助け合い、力を合わせることなど不可能なように感じる。確かに完璧にわかり合い、共感しあうことはないかもしれない。手を重ねる瞬間は刹那的なものかもしれない。

それでも、と思う。それでも、と思えることがあるだけでいいのだ、と信じさせてくれる物語なのだ。

 

村上春樹『アンダーグラウンド』

1995年の地下鉄サリン事件の被害者である一般会社員の方々にインタビューをしたノンフィクション。だけどもっと俯瞰して見れば、日本社会で社会人として生きることの困難さについての話であり、最終的には社会システムと人間の身体との軋轢、みたいなところに着地している、と思った。

ここで語られている被害者の話は「サリンの被害が実際どうであったか」それだけのことではなくて、毎日朝起きて、満員電車の何両目に乗って、電車の中ではどんなふうに過ごして、どんなふうに仕事をして人と話したりパソコンと向き合ったりして毎日過ごしているか、という平日の朝の生活の話からはじまっている。

サリンで真っ先に犠牲になったのは職務を真面目に全うしようとした現場の駅員さんだった。多くの被害者は日々満員電車で苦痛の中通勤する普通の会社員だった。身体的には軽傷で済んでも精神的にはPTSDの症状が続いているのに、それらを隠して働き続けるのが当然であるような風潮。そうしなければ「健康でない身体」はマイノリティとして集団から排除の対象となってしまう。たとえ凶悪事件の被害者だったとしても。

心身健康で長時間労働に耐えうる人間を「標準」として会社員という職業が設計されていることについて、今日ではフェミニズム的な観点からの批判をずいぶん見るようになったと思う。でも90年代、こういう大きな事件や災害が起こって多くの人が無理な通勤や長時間労働に耐えられなくなったとき、既にその制度設計に脆弱性があるのはみんな気づいてたはずだ。

朝の通勤電車で(揮発したサリンを吸い込んだことによって)じわじわ体の具合が悪くなってきても我慢して「なんとか会社に行かなくちゃ」となるこの感じが今のわたしにも容易に想像できてしまう。だってわたしだって遅くまで残業続きで毎日満員電車に乗って、多少めまいがしても気持ち悪い感じがしても息が吸いにくい感じがしても、いつものことだからと何も気づかずに見過ごしてしまったかもしれない。だって朝の電車で微妙にちょっとだけ具合が悪いのなんて毎日のことなんだから。

客観的に見ればすごく異常なのに、これが社会人の当たり前の通勤風景だよね、と思ってしまうところに別の恐ろしさがある。

突き詰めたところ、システムに自我を預けることで楽をして自分の物語を受け取っていないか?という問いかけは、オウムの教祖と信者たちの病理だけについて語られたものだけではない。もしかしてそれは、現代社会の構造そのものに潜んでいる罠なのではないか。

身を粉にして労働し、自分を犠牲にしてシステムに捧げて、ある意味自分だけの人生に向き合う苦労から解放されようとしているのではないか?

「自分のことは自分で建て直さなければならない」…これはあるインタビュイーの言葉で、印象に残っているもの。

結局大きな仕組みや組織を作って訳の分からない理屈をこねて世間からの見栄えを取り繕う人間なんかよりも、自分の人生の行動に責任を持ってきっちりとまっとうする市井の人間の方がどんなにか偉大か。襟を正されるようで。

 

漫画

瓜を破る 10

連載漫画を追いかけるのが激烈に苦手(記憶キャパ的な問題により……)なわたしが追いかけられている数少ない漫画。今回も、ううーずるいと思いながら泣いてしまった。絶望しても生きてさえあればいいことあるよって話でもあるし、長生きしたくなってもできないこともあるんだよね………。といいつつ、前巻のときもそうだけど自分が親になってなかったらそこまで刺さってなかった気はする。親が子に「幸せでいてほしい」と願う気持ち、なんだかんだ「ほんまにそんなんあるんかぁ~?」って思っていた気がするんですよね……。
そしてこれだけ「解ってみれば良い人しかいない」世界観が徹底されている作品の中で辻ちゃんの夫がどんな人間なのか気になるよ………

 

コンサート

城田優25thコンサートへ行きました。詳細な感想を書いていたら長くなりすぎたのでこの場では割愛させていただきますけども、この人の良さ、心根のピュアであたたかいものを信じているところがどこまでも行きわたっていて、観客もオーケストラの奏でる音も劇場もゲストもすべてがあたたかい祝福に包まれているような空気で素敵だったな~。
推しと言えるほど追いかけてるわけではないけど、わたしにとっては見るたび世界を美しく感じさせてくれる人だし、どうか彼の進む道に幸あれと願っている人ですね……