耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

「ノートルダムの鐘」2019年9月28日京都劇場

鐘が京都劇場に帰ってきてから、いつか行こうと思っていた。わたしはアラン・メンケンの中でも『美女と野獣』と一・二を争う勢いでノートルダムの音楽が好きで、オープニングのクワイヤからぞくぞくするくらい興奮するし、もう各場面の曲だけでも泣いてしまう。そんなノートルダムの鐘、ロングランで近場だとかえってタイミングを逃していたところがあったのだけれど、レ・ミゼラブルのジャベールを終えた川口さんがフロロー役に入ったと聞いて即チケットを取った。行きたいと思った週末のチケットがすぐ取れるの、ありがたい。

ちなみに今年のレ・ミゼラブルはチケットが取れず川口さんのジャベールが見られなくて、新キャストはそれはそれでおもしろかったんだけど、やっぱりわたしは親の顔を刷り込まれた雛鳥みたいに、ジャベールは川口さんですっかりイメージ付けられてしまっているのだな…と思っていたところだった。

 

さて、この「ノートルダムの鐘」*1において、フロローは冷静に見たら「若い女をいやらしい目で見るおじさん」とも読めるわけなのだけど、川口さんのフロローはそんなふうに全然見えない。いや、芝さんのフロローも見えなかったけれど。

なんというか川口さんを見てびっくりしたのは、真っ直ぐな気持ちで人を好きになった初恋の青年みたいに見えたから。紳士的だし、好意の表明がナチュラルで、むしろちょっと素敵。声も(エスメラルダに対する時だけ特に)やさしい。自分が面倒を見て、虐待に等しい躾や洗脳を施しているカジモドに対する声と、エスメラルダへの声色が全然ちがう。カジモドに対しては身内に対するバージョンの裏の自分であり、エスメラルダは社会的な司教として接しているバージョンの表自分なのだろう。面白いことに、彼は自分の邪悪さをあからさまにした後でさえ、エスメラルダに対しては声音のやさしいままの箇所がある。いままでカジモドにしか見せなかった裏の顔が、裏表になり、自分のペルソナの境界線が崩壊していく。

エスメラルダに拒否されるまで、フロローは自分の感情が、今までけがれたものと信じてきた色欲と同じものだと、本当にわかっていなかった感じがした。あらゆる手を使って求めれば求めるほどに、それが神の言う愛から離れていくことに気がつきながらも、「わたしを愛してくれ」と叫ぶ声に慄く。見返りを求めるのが間違いだとわかっていながら、求めずにはいられない人間の悲しみ。自分の欲望に指をさされた瞬間に、彼の理性のたがは外れてしまった。おそらくはかつて弟を失わなければ肯定できていたであろう自分の欲望。行動より前に、自分が何をしているのかわかっていながらも、そうしなければいられなくてしてしまうという、強い衝動。なんだろう、社会的に正しい人間でありたいという希望と、我を通すためには邪悪であっても構わないというなりふり構わなさとが、当然のごとく同居している……。そんな人間の姿を見たとき、わたしはそこに自分の姿をも見出さずにはいられない。

火あぶりの直前、最後にエスメラルダから唾をはきかけられたフロローがどんな顔をしていたか。わたしは上手側二階席だったので角度的に見えなかったのだが、それを一番近くで見ていたエスメラルダの岡村さんの表情の方が印象的で……。エスメラルダが、泣く寸前みたいな顔をしていた。なんでそんな顔するの?と衝撃だった。そんな顔をするくらいなら、なんで応えられないの?この人の愛に。

岡村さんといえば、一瞬で目を惹く華やかな美貌の中に、キリリとした芯の強さみたいなものを感じて好き。エスメラルダがかわいそうなだけの女だったらノートルダムの鐘ってあまり好きになれない話だと思うので、そのあたりのバランスは大切なのだろう。ちなみにこの日のフィーバスは佐久間さんで、わたしがエスメラルダの同じクラスの女子だったら「あのフィーバスのどこが好きなん?」って本気で首を傾げそうな感じもよい。佐久間さんのフィーバス、根は真面目だけど見た目と遊び好きで誤解されがち、だけど一度彼女できると一途、というチャラ男キャラみたいな雰囲気でなかなか愛くるしいのだが、そのフィーバスと刹那的に恋に落ちてそのまま付き合っているエスメラルダは自由な恋を謳歌している女という感じだ。「人を愛する」ということの重さが、エスメラルダとフロロー、カジモドではぜんぜんちがうのだ。

f:id:sanasanagi:20191004000140j:image

川口さんのフロローは芝さんよりは少し声は高めで(とはいえ二年前なので記憶はさだかではないのだが)、四季の発声の中でも若干浮き上がって感じるほどに、話し方が淡々としていて冷静。それだけに、声を荒げたり震わせたりするときのコントラストが効く。あの声でお前はみにくい、お前は気持ち悪い、って言い含められて育てられたら、そうなんだ僕はみんなから嫌われるし何をやってもだめなんだ、それなのに愛して守ってくれるフロローってすごい、ああでも外を見てみたい、そんなふうに思ってしまう自分はわるい……って自然に思いこまされるかもしれない。カジモドが自分を殴る仕草が自然体で、自発的なのが痛々しくて。「こんなふうに思ってしまうなんて僕は悪い人間だ」という台詞にぞっとしたその瞬間、観客は感情の自由を奪うことで支配は完成するのだと気づかされる。

これは初見の時から思ってたのだけど、カジモドがフロローを「ご主人さま」って呼ばされてるのはかなり気味が悪い。何が怖いのかといえば、絶対に親子ではありえないその関係性が二人の間では当たり前でごく自然なものになってしまっていることだ。自分を殴るのも、フロローの法衣の裾に跪いて口付けるのも、カジモドが自ら執拗に行おうとするのだけど、それは物心ついてからこのかた彼が唯一接した他人であるフロローから教え込まれたことに他ならない、と皆に気づかせた瞬間から、フロローはやばいやつや……と全員が思う。それでも観ている人間がフロローを絶対的に邪悪だとは思えず、むしろフロローに共感して涙さえしてしまうのは、彼の感情がわたしにも身に覚えのある傲慢と飢えを追体験させるからだ。自分は正しい、自分は他者を導く人間だという傲慢。そして、求めた見返りが与えられない飢餓感。

 

カジモドがメイド・オブ・ストーンで完全なる孤独に自ら身を落とすシーンは悲しすぎていつも泣いてしまう。カジモドが虐げられながらも真っ直ぐに育ってきたのは、自分の中に物語を持っていたからなのだろう、と思うから。だからこそその物語を与えてくれる唯一の他者であるフロローから離れられなかったともいえるが……あ、そうか。現実に直面することで物語を捨てたカジモドだったけれど、それがゆえに物語を与えたフロローを断ち切ることができたという話なのだった、これは。

*1:ディズニーアニメ版ともユゴーの原作小説とも(ミュージカル「ノートルダム・ド・パリ」とも)違うお話になっている。