耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

シェイプ・オブ・ウォーター

以下の文章は、映画の詳細な内容に触れている可能性があり、当該映画を鑑賞されたことのある方が読まれることを前提に書かれています。

 

 

 

冷戦下の米国、宇宙開発ラボで掃除係として働くイライザは、ラボに連れてこられた水生の人型生物と次第に心を通わせるようになる。


一番最初に考えたのは、美しい映画にも暴力表現がなくてはいけないのか?ということだった。


この映画に関しては、美しいものとグロテスクなものとがいかに紙一重のところで行き来しうるのか、を示していると思うので、生々しいグロテスク描写はやはり必要なのかもしれない。とりわけ生きているものを美しいとみなすかどうかは、多分に主観を含んだ恣意的な切り分けにすぎない。


たとえば主人公イライザの親代わりだったおじいさんは、近くにできたチェーン店の店員である男性に心を寄せては接近を試みるのだが、店員の彼は友人としては接してくれても、同性愛者だとわかった瞬間に激しい拒絶を示す。その上、黒人は自分の店で食事することを許さない差別主義者だ。そうして白人異性愛者以外のいない、自らの思うクリーンな世界を作り上げようとしている。それは当時の白人社会にあっては当然だったとしても、現代の私たちから見れば醜悪でしかない。


軍部で功績を上げ現在の地位に就いた白人男性であるストリックランドは、女性を自分と対等にものを考える人間として扱わず、息を吐くように人種差別的な言葉を吐き、暴力を振るうことで他者に自分の力を誇示する。権力者に認められることこそが自己の成功モデルだと信じて疑わない。現代に生きる日本人の女性である私にとっては、彼の姿は滑稽なまでに戯画的な悪人と映るが、1960年代のアメリカに白人男性として生まれ、おそらくは強い男のイメージを刷り込まれて育ったであろう彼にとっては、思い描く通りに階段を一歩ずつ上ることこそが最高に美しい成功のイメージであっただろう。部下を大声で怒鳴りつけて黙らせたり、黒人の住まいにずかずかと踏み込み、偉そうに家主に命令を下すことも、ソ連のスパイを自らの手で拷問に掛けて苦しめることも、何のためらいもなくやってのけるどころか、彼の中に厳然と存在する強い男のイメージのひとつですらあったわけだ。


このストリックランドにとっては耳障りな声を上げる、得体のしれない人外生物は、その外見のみならず存在自体が自分の描く美しい世界を邪魔する。彼の反撃にあって完璧なはずの自分の身体は損なわれるし、その喪失により上司の評価が落ちる。


ところがイライザは、水の中にいる見知らぬ誰かに躊躇なく近づく。食事を共にし、互いに二人の間に通じる方法を探してコミュニケーションを取る。彼女の親代わりである映画技師のおじいさんも同じ。最初はためらうけれど、いくらでも自分たちを傷つける方法を持っていると知っていながら、彼なりの接し方で隣人になる。写真のおかげで時代遅れになった商業画家である彼は、彼を初めて見たとき人間としては風変りな彼の姿に、美しいという感嘆を漏らしさえする。
そうしてイライザにいたっては、互いの愛によって為しうる究極のコミュニケーションを実現するのだ。


彼らの愛のはじまりは、彼女自身が社会的弱者として抑圧されてきたことからの共感であったのかもしれないし、初めは単なる好奇心だったのかもしれない。他者とのコミュニケーションに踏み出すという行為は相手がだれであっても恐怖心を伴うけれど、イライザは自分を肉体的に傷つけるであろう彼に対しコミュニケーションを試みるほど、それに飢えていたのかもしれない。


この物語のエンディングは途方もなくロマンティックで、幻想的な映像と情緒的なサウンドトラックとともに、私たちがだれでも知っている有名な物語をモチーフにしたハッピーエンドだということを示唆している。

 

自分が思うように他者を排除した世界とは、理想なのだ。それがだれの目にどのように映ろうと、だれもが自分の信じる理想の世界を持っている。だからこそ、それが他人の手で具現化されたものとして触れることができたときには、心を動かされずにいられない。

久々に映画館で映画を観たけれど、他人の理想の世界を大勢の人と共感できたと感じられる、コミュニケーションの手段としての映画の長所を思い出させられた。