耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

博多座「エリザベート」の思い出(3)

出かける前まではさすがに3回も続けて観たら飽きるのではないかと期待していた。飽きるものなら早く飽きて気持ちの整理をつけ、エリザベートのことばかり考えてしまう日々から解放されたい。

ところが土曜日の夜、飽きるどころかまだ余っているチケットがないかと血眼でインターネットを探索する私がいた。実際のところそれはなかったのだが(高額転売チケットならあったが、さすがにダフ屋から買う気にはならない)、興奮とブルーライトのために寝付けなくなり暗闇のなか目を爛爛と光らせてイヤホンでライブ盤のCDを再生しながら横たわっていた。

翌朝、目の下にクマをぶらさげて博多座の近くのカフェへモーニングを食べにいく。朝からの大雨でサンダル履きの足元が滑り、傘からはみ出した鞄が濡れている。そんななか、劇場の関係者出入り口の周囲には出待ちの方々が鈴なりに列をつくっていた。カフェの客層も圧倒的に博多座の開場待ちといった雰囲気である。

この世に話し相手がいない私は席について持ち歩いていた本を開いてみるものの、気が付くと昨日の公演の思い出を反芻してしまって全く読み進めることができない。もっと気楽に読めるものを、と思いたまたま持っていた岸本佐知子さんのエッセイに切り替えると、今度は文章が面白すぎて吹きだしそうになり、私のひよわな腹筋がぷるぷる震えている。公共の場で一人うつむいて肩を震わせている姿はおそらく不審だが、周りの客もこれからの公演のことを考えるのに忙しくて他人のことなど気にしていないから大丈夫。やっと笑いの発作がおさまって顔を上げると周囲の客は姿を消していた。開場時間が過ぎていた。


 


 

8月28日日曜日 昼

キャスト
エリザベート:花總まりさん
トート:城田優さん
ルドルフ:古川雄大さん
ゾフィー:香寿たつきさん
ルキーニ:成河さん

初回ぶりに見て、成河さんのルキーニが丁寧な「語り」に徹していることに気づいた。山崎さんのルキーニは、社会や場の空気を敏感に感じ取り、場を盛り上げながらさりげなく進行役も務めるエンターテイメントの司会役といった趣があったが、成河さんはすべての登場人物を操る人形使いのように見えてくる。自分以外の登場人物の動きをすべて頭の中で計算し、その後ろでぴったりとルキーニが動きを合わせているからだ。そしてまるで風景描写をする小説家のように、カフェのテーブルセッティングをきっちりと行い、人物を配置して紹介を行う。

だがルキーニは淡々と語りを進めているわけではない。ゾフィーの言いなりになったフランツ・ヨーゼフが息子の命を嘆願に来た母親を却下する場面や、皇太后と皇后の諍いの場面では爪を噛むような動作をしながら見守った後、いかにもわが意を得たりとばかりにニヤついている。「マダム・ヴォルフのコレクション」ではルキーニが娼婦の脚の間から顔を出す振付があるのだが、そのとき上目遣いに女性の股を見るような表情をしておどけている。「HASS(憎しみ)」ではドイツ民族学者シェーネラーやナチスドイツ下の秘密警察の扮装を次々と身にまとい、反ユダヤ主義下の人々の憎しみを炙り出す。「ミルク」でもルキーニは暴走する群衆の憎悪感情を扇動するが、結局のところミルク売りは皇室に売るためにはちゃっかりとミルクを取り分けているのである。支配欲や権力欲、エゴ、売春に伴う性病の蔓延、異文化の排斥や群衆の暴走といった、思わず目を塞ぎ蓋をしたくなるような人間の醜悪な部分ばかりを取り分けて提示してくる。

きわめつけは「キッチュ(リプライズ)」で、ルキーニは息子を失った悲嘆にくれるエリザベートの写真を撮影し狂ったように歓声を上げる。しかしいったい"偽物"は何か? 苦しみの極致にあるエリザベート皇后の写真をエンターテイメントに仕立て上げている臣民たちが、”良心”とか”善意”と信じているものの方こそ偽物なのではないか。だって、他人の苦しみを喰い物にしているこの男はこんなにもグロテスクなのだから。けれどそれこそが、私たちが内に抱えている本当の人間の姿なのだ。
そこへ畳みかけるように「夜のボート」である。「いつか私の目で見てくれたなら 分かり合える日がくるでしょう」…結婚の前も、互いに老いた今も同じことを願いながら、最後まで分かり合うことのなかった皇帝夫妻。互いを信じて契りを結んだはずだったのに、理解し合えると信じたことも、愛も、家庭の破綻によってすべて偽物だったことになってしまった。ならば真実なのはもはや皇后が没頭する魂との対話、神への愛だけ。グランデ アモーレ。

そう思った瞬間、「エリザベート」が何の話だったのかようやく腑に落ちたような気がした。苦悩しながら生き抜いた一人の女性が、神への愛のために救われる物語。だからこそ晩年に近づくにつれ、エリザベートは孤独になっていくのだ。それは自分ひとりのなかにだけ存在しているものだから。

子どものころの事故で「彼女を助けてくれたのは神様なんかじゃない」とルキーニは言ったけれど、神様は確かに気まぐれで、願えば助けてくれるとか、善いことをすれば救ってくれるというものではない。残酷で人智を超越した存在。最後までひたむきに信仰を守ったとしても、蝋燭の火のように命を奪っていくのがこの世界の神様というもの。

一幕の終わりでトートが「お前を返したために生きる意味を見つけてしまった」と歌うが、エリザベートにとっての「生きる意味」とは運命のうねりに抗い、自分の意思で生き方を選び取るということだった。しかし世間は自分の外見にしか価値を見出さない。民衆は表面しか見ていない。夫との間には深い溝ができ、自分の過ちのために息子を死なせてしまった。見つけたはずの「生きる意味」をこの世界から見失ったエリザベートは、魂との対話によって神の救いを見出すのである。

幕が下りた後、良い舞台を見たときの清々しい気分でスタンディングオベーションをする一方で、この回の公演から私が勝手に受け止めたと思ったものの重さが息苦しかった。最初から最後まで、これは本当に死者による死者のための物語だったのだ。
私は醜いものを内包していると分かっているこの世界でまだ生きていたいと思うから苦しかった。

この物語を信じられたのは、何も知らない少女時代の美しさから現世の虚しさを知る老婆に至るまでを演じ分けた花總さんのエリザベート、この世ならぬ者のような空気を纏う城田さんのトート、そして容赦なく人間の醜悪な部分を浮き彫りにし続けた成河さんのルキーニという組み合わせだったからこそだと思う。



あれから一週間が経った。

自分の中で一旦納得のいく解釈を得たことで、もっともっと何回も観たいと目を血走らせるようなことはなくなり、熟睡できる日々だ。しかしこうして振り返ってみると、井上さんのトートの記憶が薄くなっている。改めて見てみるとまた考えが変わるかもしれないので、井上さんのトートと成河さんのルキーニの組み合わせで見られるはずのDVDが楽しみだ。

実はルドルフもWキャストだったのだが、チケットを取る時点ではルドルフのことはあまり考えていなかった。もしかしてルドルフも両方見ると別の角度からの発見があったのかもしれない。ルドルフ役の京本さんは事務所の都合なのかよく分からないのだがDVDにも演技が残らないので、余計に惜しい。そもそもトートが子どものルドルフではなく大人になってからのルドルフを殺すことを選んだのはなぜか?そしてルドルフの墓の前でトートがエリザベートを拒んだ理由は?といった点についてはもう少し考えたいと思うし、単純に「闇が広がる」「マイヤリンク・ワルツ」で若くスタイルが良く見目麗しい男性が苦しんでいる場面を凝視できる愉しみもあるので、もし何年か後に再演があれば観に行くのが楽しみだ。

複数回の観劇を通して自分の中で物語の捉え方の変化があったことがあまりにも面白かったので、今回はその点を中心に書いたが、複数回見て主要登場人物以外も見る余裕ができたことで、1回目は捉えきれていなかったエリザベートの実親や王室の側近たち、女官長ゾフィーダンサーズ、ハンガリーの革命家たちといった脇にいる人々の芝居も実は細かく見応えのあるものだと気付いたし、オペラグラスのいらない席で全体を見ていると好きなシーンがたくさんできた。

また、帰ってからウィーン版のDVDを見返してみた。東宝版の演出を念頭に置いて見てみると、以前はただの変な演出だと思ったところに意味を感じて面白かったり、曲順が違っていたりして興味深かったので、あと10回ぐらいはDVDを見てみようと思う。