評論・エッセイ
『影の現象学』河合隼雄
精神分析の本をつかまえておいてめちゃくちゃ邪道な読み方なのだが、完全にミュージカル「エリザベート」の副読本やん、パンフレットに載せるべき……と思いながら読んでしまった。
トートはもちろんのこと、フランツも最後の夢ではたぶんシシィの影だし、狂言回しという名目ででてくるルキーニもシシィの影だし、シシィの父もシシィの影だったんだ…
ルキーニが執拗に鏡を見せてくるのも(あるいはカメラを向けてくる演出もその亜種では)「私だけに」や「僕はママの鏡だから」、「夜のボート」など鏡像を使った演出も、たんなる美への執着というだけではなくて、鏡にうつったシシィの自我(彼女自身がおそらくはそれを見失っていること)の暗示なんだな……(※個人の解釈です)
あと先月の感想に書いたトニ・モリスンの『暗闇と戯れて』と響き合うような示唆もあり、合わせて読んだのもおもしろかった。
日本人の心性上は自我が小さく、影との曖昧な重なりを楽しむという話も面白い。
トニ・モリスンのいうようにアメリカ文学では一貫した自我が求められたがために黒人の存在を必要としたのだが、そもそも一貫した自我などないことが前提になっている感覚をもっていれば、必ずしも強い影は生まれない、ということ。よくも悪くも。
河合隼雄の日本社会論についての本もあるようなので読んでみたい。
『娘が母を殺すには?』三宅香帆
文芸評論にもとづき、母殺しを試みている物語をひとつずつ検証しては母殺し、無理じゃないの?と思わせておいて一つの解決策を提示する着地。『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』より個人的な関心に近くて面白かった。
ここからは「わたしの場合」についてかえりみて考えたときの感想になるのだけれど、恋愛や人間関係、仕事選びなどに関しても結局自分の欲望と「母の規範」の分別が難しいと感じる。実際にこの年(36)にもなると結局規範に従ってきたことで幸せに感じている部分もあるし…。と肯定したい思いと、今更規範を否定するほうが苦しいからむしろ肯定して楽な今を維持したい思いとかが入り混じってぬるま湯。
わたしの欲望にはそもそも母の規範の影響を受け継いでいるものがあるし、母の規範の範囲内を出ないように欲望しようと気をつけてるものがある…と思う。そのあたり、「自分の欲望」がどこまで自分のものかというのは正直いって分からない。後に出てくる同著者の『推したちとどう生きるか』を読んだときも似たようなことを考えたが、そのあたりは曖昧。ただしそれが不快なものでないのなら完全に切り離す必要もないのかなという気もする。規範は自由を縛るものでもあるが、自分が生きのびるために大切な倫理観にもなるものだから。
そして自分が母になった今、母息子問題は気になる(本書では深く言及はなかったけども)。母子問題にかんしてわたしが最近不安に感じているのは、湯婆婆と坊みたいなひたすら甘やかす関係になってしまっていないかという恐れ。子育てをしていると、子の要求を受け入れるか否かをその時どきで不断に決断しつづける必要がある。そしてわたし自身も無意識のうちに、それが子にとっては規範になっていく。それが怖い。だから甘やかしすぎてしまう。
つい子の要求を受け入れすぎ、甘やかしすぎてしまうのは、働いたり自分の欲望を優先させるために育児の場に不在になる罪悪感の裏返しなのかもしれないが。さらにその後ろにはまさに「自己犠牲して自分を育ててくれた母への罪悪感」があるのかもしれない。
たぶん我々世代の女性にとって精神的に母娘問題が切実であるのは、母親世代と全く異なる社会環境で全く異なる生き方をせざるをえないから。別に現実の母親との仲が特にこじれていなかったとしても、母世代は専業主婦が多数派で、働きながら子育てはスーパーウーマンにならなければ達成できなかった世代。一方で我々世代は結婚出産育児をするか否かも、母になるとしても専業主婦になるかワーキングマザーになるかも、住む場所も一緒に住む相手も仕事内容も、自分の周囲の環境次第で多様な選択肢があって、必ずしも「母の規範」(と感じているもの)に従えるとは限らない。自分自身をみていても同世代の友人を見ていても本当に切実な問題としてあちこちに存在する。いわゆる毒親ではなくても、結婚出産に限らなくても、転職や留学みたいな転機となる決断に際しても「母がね…」と悩む友人の言葉を何度聞いたことかと思う。
これって同じ現代日本社会に生きている以上は自明なことだと思いこんでいたのだけど、この本の感想をチラ見したところ、世代や環境やジェンダーが違うだけでそれが全然ぴんとこない人もいるんだなーというのにちょっとびっくりしてしまった。
ところで、最近ジュリー・オオツカの『スイマーズ』が3刷になったというお知らせを見かけたんだけど、この本は母娘関係のいちばん輝かしく思える達成の姿だなと個人的には思う。
『「夫婦」不在社会』三宅香帆
2冊続けて読んだら続編感あって面白かった。こちらも文芸作品を通して夫婦という切り口で現代社会の課題を考える本。
パートナーシップについては今現在の私はそこまで悩んでいなくて、一方で結婚当初に悩んでたことはかなり「規範」意識と繋がっていたなあと思う。具体的にいうと、自分がもっと家事をやらなくてはいけないのでは?夫のことを癒さなければいけないのでは?と思っていたし、それができなくて辛い時には明らかにいちいち親の顔が思い浮かんでいたなーと。
ただ根本的にどうしたら労働(公)が私生活に侵食するのを止められるのか?という話については、「その状態を自覚し、戦略的に逃走するしかない」ということになるんですよね。
まあ労働にかんしても、「この会社」ってしがみつくと会社に傷つけられた時に滅するのは人間関係と同じことなので、第三者的な逃げ道をつくっておくのは大事だよねと思う。
『推したちとどう生きるか』三宅香帆
わたしが推し活文化に触れる時に「界隈にうまくとけこめない」「友達がつくれない」と悩んでいたことにアンサーをくれたうえで、どちらかというと肯定してくれる本だったので気持ちよく面白くなってしまった…。そういう想定で書かれたものではない気がするが…。
「推し」というのは最近でてきた言葉だけれど、推し活的な行為自体は昔から存在していたのでは?という問いを歴史から紐解いて検証している。特に近代~現代にいたるまでで日本社会がなぜ未成年の身体を必要としたのかを童謡、高校野球、宝塚、そしてメディアとアイドルの関係に例を引きながら、同じ線で繋がっていることを論じている。
わたし自身も趣味に生きるなかで「推し活」に近しいところを常にうろうろしている人間なので、自分がハマってきたジャンルのことを思い出しながら読むことになった。だけど、冒頭にも書いたように、やっぱりわたしはずっと共同性がむしろうまく持てないできた人間だなあと思う。共同性の暴走をおそれるあまりに共同性の楽しさも享受できないできてしまったなあというか…。
本書で使われている言葉でいうところの「アリバイ」を使いつつもアリバイを使っていることに無自覚なのも嫌だし、かといって対象を消費していると堂々と言ってしまうことも、それはそれで、わたし自身の内側にある一種の規範意識ゆえに無理で、その文化圏の共同性には最後まで馴染めなかったのが過去に「お笑い」とか「フィギュアスケート」を好きだった時の心性だな~
と、今更ながら十年前の自分を省みた。
「おわりに」の章でとある高校野球の試合の(共同性の暴走の)例が引かれているのだけど、ここに対置されるものとしてフィギュアスケートファンたちが呪文のようにとなえる「全選手応援」という言葉を思い出す。フィギュアスケートがそもそも個人競技であることも、こういう誰かを負けを積極的に願わない応援態度に親和性が高いのだとも思うけど、疎外の暴力性に敏感な人の多いからこそ誰も疎外しまいということを、あえてスローガンにしていた人が多かったのだろうなと思う。(ただ、そういうファン内の行動が賞賛されることにより新たなプレッシャーが生まれること自体もまた息苦しく感じもしたわけだが…。だからやっぱり共同性はほどほどに楽しんで個人の言葉を大事にしなね。という話が心地よく感じるのだろうな。)
『なぜあなたの感想はふつうなのか』大島育宙
著者はネットでレビューや批評を書いている有名な方らしいが、たぶんレビュー対象の守備範囲にされているドラマをあまり見ないのでわたしは本屋でこの本を見かけるまで存じあげなかった。。三宅香帆さんの本の近くに置いてありました。
たぶんそれもあってか「わたしがよく見ている界隈」ではあまり言われていないこと(他人の感想を隅々まで調べ上げたうえで、まだ言われてないことの中で自分の切り口を書くとか)をあえて一種のスキルとして述べているのがおもしろかった。
と、そこだけ抜粋すると逆張りの人みたいな印象になってしまって申し訳ないのだけど、要は先行研究や作家の情報を隈なく収集した上で自分なりの仮説を立てるべきだというめちゃくちゃ正統派な手法である。大学の文学部の先生が口をすっぱく言っていたことと同じで、めちゃくちゃ真面目な研究者肌の人だ…と思った。
わたしがいちばん耳が痛かったのは「仮説が正しいか「検証」する」という章で、たしかに自分なりの仮説がみつかるとそれにずっとすがりついてしまい、①そもそも検証を怠る②検証して反証がみつかったとしても見なかったことにする③挙句の果てには、「誤読も読みのうち!」と開き直って楽しがる というのはあるあるだな~と反省した。
『無人島のふたり』山本文緒
ステージ4のがんを宣告された山本文緒さんが最後の日々を記した日記。
日記という形式や、文体も決して雄弁に言いたいことがみっしり詰まっている文章というわけではないのだけれど、だからこそ少しずつしか読めなかった。
生前からのファンというわけでもないわたしでも、読んでからしばらく引きずってしまうほど悲しいのだけど、それでも読んでよかったと思う。死を恐れる気持ちは変わりないけれど、でも、必要以上に恐れることもないのかもしれない、と。
小説
『どれか一つは嘘』キム・エラン/古川綾子 訳
タイトルは作中のオリジナルな自己紹介ゲームから。
この「どれか一つは嘘」をはじめ言葉をつかった戯れみたいなものを通して、それぞれに孤独を抱えた三人の若者が自分の居場所を語る言葉を獲得していくさまが美しくて、やさしくて。
「嘘」みたいに自分だけがわかる言葉の実験みたいなものから、自分を語る言葉は立ち現れてくる。
いくつも泣きたいくらい美しくて切ない文章があってページ数をメモしていたのだけれど、でもその文章に小説のなかで出会うほうがずっと良いと思うので、ここには引用しないことにする。
『マンゾーニ家の人々』ナタリア・ギンズブルク/須賀敦子 訳
けっこう長らく積んでいたが、『クコツキイの症例』を読んで「○○家の人々」を読むなら今では?と直感して読んだ本。(『クコツキイの症例』も邦題を『クコツキイ家の人々』にする案もあったらしい)
家族の話がどうも気になる今日この頃。
『白鶴亮翅』多和田葉子
多和田葉子作品の煙に巻くようなユーモアが良い〜。物語のなかで語り手が習っている太極拳が、まさにこの多和田葉子文学の姿勢を比喩するモチーフになっている。肩肘はらずに転ばない。個人の境界は守る。
ケーキを分ける白昼夢で、あとからきた〈日本〉の人の語り手が不本意にあばれだすところ面白くも悲しかった。〈日本〉の感覚としてはそうなるよな。他の人のケーキに唾吐いて回るワルの子もそうしたくなる本人なりの言い分はあるわけで…まあだからといってワルがワルであることには変わりないんだけども。唾かけられた側への加害を自覚し、謝らなければいけないのは当然のこと。
阿部公彦先生が解説で引いてるベッカーさんの顔の描写のとこといい、抽象的なモチーフを擬人化する描写がめちゃくちゃおもしろい。
『いい子のあくび』高瀬隼子
『ファイナルガール』藤野可織
藤野可織さんの作品って読了後にどう言葉にしたらしっくりくるのか分からないことが多い。高瀬隼子とはまた別の方向から「わたしもよく知ってる、怖い風景」を切り取っている作家だと思う…。より隠喩的なので言葉にするのが難しいのだが、「よくわからないけど、わたしはこの風景をなんだかすごくよく知っている」という感じがする。
特にこの本はその「言葉にしたくなさ」が強くて、たとえば『プファイフェンベルガー』や『狼』『戦争』といったような作品を読んで自分の欲望を自覚することでものすごく気味のわるいものを取り出してびっくりする、みたいな思いを味わったからだと思う。言葉にするよりもメタファーはメタファーのままでそっとしておきたい気がするというか…
と結局なにかしら言葉にしてしまっているのだが…。
『話の終わり』リディア・デイヴィス/岸本佐知子 訳
やっと読み終わった。記録によると去年の9月から読んでいたらしい…
決して面白くないわけじゃなくてページを開いて読みはじめると面白くてずっと読んでいたいみたいな気持ちにさせられるのだけど、実際にずっと読んでいるとその気持ちを維持するのは難しかった。この主人公と、主人公が出てくる小説を書いてる作家の頭をずっと覗き続けること、そのことへの関心を持ち続けるのが難しかった。
読むタイミングに内容が合っているかどうかっていうのもあって、今のわたしは自我がどろどろに溶けて再構築しなくてはどうにもならないレベルにまで誰か一人に対して深く強烈な執着を持つみたいな感情についてもちょっと離れているものだから途中で興味が途切れてしまった。でもこういうのがめちゃくちゃ面白い好きっていう人がいるのはわかる。
今のわたしは小説の形式を脱構築してるみたいなものより小説の形式とは何なのかを知りたい段階なのかもしれない…
余談だけど題材としてはアニー・エルノーの『シンプルな情熱』と似ている気がする。アニー・エルノーのほうが生身の肉を切り分けている…みたいなスリリングさはあったかもしれないが。『話の終わり』のほうが淡々と観察してて距離があるイメージ。
舞台
ミュージカル「レベッカ」
感想を書きました。sanasanagi.hatenablog.jp
好きな小説を好きなミュージカル作曲家&脚本家コンビがミュージカル化してるなんて幸運ある?キラキラ という気持ちで改めて考えてみたけども、そもそもクンツェ&リーヴァイ作品に共通する「人間の影」というテーマに惹かれたからこそわたしはレベッカも面白いと思うようになった…という順序だったかもしれない。
あるいはそもそも「人間の影」という普遍的なテーマがあって、デュ・モーリアもクンツェ&リーヴァイもわたしもミュージカル好きの皆さんも、その同じブラックホールの周りをぐるぐる回りながら吸い込まれていくという点においては等しく仲間であるのにすぎないのかもしれない…
劇団四季ミュージカル「ノートルダムの鐘」
感想書きました。










