最近YouTubeで本紹介を見て読書したい気分を盛り上げることが多い。わたしもやってみたい〜と思って夏休み中に家で本棚紹介ごっこをしてみたら、自分のしゃべれなさと喋り方の気持ち悪さとでギャフン!となりました…
読んだ本
新書・ノンフィクション
『「ふつうの暮らし」を美学する』青田麻未
普通の人の暮らしのvlogを見るのが好きです。ただの覗き見趣味というのもあるけど、カメラの向こうにある他人の暮らしのなんでもない動作を、頭の中にある自分の暮らしの動作と引きつけて見ることで、自分の生活のなんでもない一部分までも、どこか他人の目を通して見たかのようなドラマティックさを感じられるから。この本はそうした感覚も美学の観点から説明されていて大変おもしろかった。
vlogや片付けや料理の事例、全部そうなのだけど、著者は主体的に日常において感性をはたらかせ、それを日常美学に接続することを主眼においている。
そういわれてみれば、共働き家庭の子育てハックとしてたまに見かける、子どもを家庭運営のチームの一員として扱う というの、教育という意味ではこの本で言われている「世界制作」という考えと響き合うものがあるなと思った。
自分の住む世界のお客さんにならず、自分の感性をはたらかせて身の回りを改善していくことが、自分自身で可能だと体験をもって学んでいく。その積み重ねの先には、家の中や身の回りをはじめ、社会や地球全体においても同じことだと思えるようになれたらいいのではないかなと。
『学歴狂の詩』佐川恭一
劇団雌猫さんのpodcast聴いて気になっていたところ、SNSで試し読みのリンクを貼ってくれてる方がいて気づいたらそのまま電子で一気よみしてしまった……面白すぎる。
詳しくは上記podcastを聴いていただき無料公開の試し読みを読んでいただくのが一番手っ取り早いのですが、多感な中高時代に京都の某男子進学校の学歴至上主義を刷り込まれたために青春と人生を狂わされた青年たちの哀しき詩を、ギャグタッチに綴った青春ノンフィクション(?)なのである……
しかし一番ノンフィクションみがあるのは、学歴狂の思想を植え付けられた人間が社会に適合するための「過程」の未だ途上にあるというところなのかもしれない……
個人的にわたし自身は、東大京大レベルの高学歴は天才であろうと学歴狂であろうと、頭の回転も努力体力のキャパもレベルが違うな〜と10代の頃に実感した側の人間なので、かれらも(ときにイージーな面はあるにせよ)それぞれの人生の困難とは向き合っていかなあかんねんな結局は……としみじみした本でしたね。
それはそれとして何かにどっぷり人生をコミットした人間たちの滑稽さを、そこから十数年経ってなお皮肉るでもなく悔悟するでもなく斜に構えるでもなく、ただその渦中に読者も引きずりこむかのような愉快なパワーをもって面白おかしく書いてるっていうのが著者の力量だし、文学の力による「救い」ってそういうことなのかもしれない、、
小説
『工場』小山田浩子
よく分からない大きな組織システムの中で自分が何をしてるのかもよく分からないままに「何か」をして人生を消費する奇妙さ。わたしなどは一人の無力な会社員として決して全貌を把握することもできないままその「何か」を一生懸命やり続けて一生を終える奇妙さをこの作品に重ねるという平凡な読みしかできないのだが、そんな読者が大多数であることなんてお見通しな金井美恵子の解説が面白い。
そのようないわば「カフカ的」とする解釈を一段俯瞰した目線で眺め、この小説の読みを一義的にしているのは社会がまだその段階にしかないためである、としている。つまりそれってこの作品が、「別の社会」においてはより広がりのある読みを可能にすることさえ示唆しているということ。(ただ、具体的にどんな読みの可能性があるのかは言わないわけだが…。)しかしこの小説のもっと他の読みが可能になってしまう社会とは、それはそれで恐ろしい地平のような気がする。
『生命式』村田沙耶香
世界の狂気と正常の境界を曖昧にさせ問いかけてくるのが村田沙耶香作品だけど、この短編集を通しては、狂気的な世界に適合しようと懸命になる人間へのいつくしみのまなざしがある気がする。人間の営みってよく考えたらグロテスクじゃない?それが正常だと思い込まされてるだけで。ということを言ってる小説はもちろんたくさんあるのだが、そうでもして自分(たち)の生命と種を存続しようとする人類のあるがままのあがきを、一方でちょっと冷静に見つめながら、もう一方では圧倒的ないつくしみの気持ちで包み込んでくるような、相反する指向性が両立してる。さらには、そういう相反する視線の「気持ち悪さ」さえも俯瞰してるみたいな視線さえ感じられて、文体はなんかさらっと読めるようだけどやっぱり独特だよな〜と思う。
『赤い魚の夫婦』グアダルーペ・ネッテル(宇野和美 訳)
翻訳小説好きな方がおすすめしてる率が高い気がしてずっと気になっていた本。洗練された雰囲気のさらりと読める短編集でありつつ、余韻も味わえたりユーモアやゾクゾクする感じもあって好みだった。人間が生活とともに精神のバランスを崩す瞬間を、共に暮らす生き物の描写に重ねて描いているのも今の気分に合っていた。
そう、今の気分…といえば、最近虫系の話に出会うことが多い。(『生命式』にも虫を食べる描写がある、先月の『人形のアルファベット』も虫の描写あり。)家の中というパーソナルな空間に侵入してくる気味の悪い存在、というモチーフとして虫というモチーフが効果的なのだと思うけど、それがいろんな国の小説にみられることと、それぞれの小説の読み心地が全然違うのが面白い。
個人的にはこの『赤い魚の夫婦』に収録されていた『ゴミ箱の中の戦争』が、切なさとともにユーモア感覚も感じられて一番好きです。必死で、想像するだにゾワゾワするのに、語るとなれば何故か滑稽みをおびる、それがゴキブリとの戦い。
『密やかな炎』セレステ・イング(井上里 訳)
ティーンエイジャーがメインの登場人物になる小説読んで毎回言ってる気がするが、今回も親の気持ちになって読んでいた。二人の母親が出てきて、割とわかりやすく「世間的な理想の母親とは程遠く、自分の都合で子どもを振り回すが、子どもとの信頼関係は強い」「世間的には理想の賢母、だけど子とは全く心が通じていない」と対比されている。そしてストーリーが進行する間じゅう、読者は後者の母親(リチャードソン夫人)にうっすらイライラさせられ続ける。
このリチャードソン夫人という人は、境遇も恵まれていて共働きのお金持ちなんだけど、彼女のマウンティングは財産や地位を単純に誇ることではない。他人の行動を評価しては「わたしはそんなことにはならない、わたしはもっと賢くやれる」と常に内心でつぶやき続ける、これ以上ない傲慢。人を断罪し、他人の心に土足で踏み込む人間。
だけどきっと、ほとんどの親は10代の子と完全な信頼関係で結ばれることなんてできないのでは? そんなふうに不完全な母親の姿こそ、我々自身の写し鏡なのでは?
子は成長すれば親を一人の人間としてジャッジするようになる。そうすると、自分自身もジャッジされる側になる。ジャッジする側に回ったからといって正しくなれるわけではないのだ…ということを、色々な対比構造を何回も裏返したりめくり返したりしながら考えるような小説だった。
『緋文字』ホーソーン
『密やかな炎』は緋文字のオマージュであるとのことで、積読から掘り返し。以前書店の海外文学フェアで購入していた新潮文庫は、翻訳が古くて読解に悩む部分が多く、途中でKindleUnlimitedに入ってる光文社古典新訳文庫に切り替えました。
最初は人が人を罰することについての話かと思いきや、翻って、人は主体的に「どこにでも行ける」ということについての話だった。これって裏返しの両面なんだよね、と、『密やかな炎』を読んだ後だと思う。人を罰する人間が、最もきつく縛りつけているのは自分自身なのだ、と。
『イエスの学校時代』J.M.クッツェー(鴻巣友季子 訳)
『幼子時代』では男女の異性愛的恋愛関係について持論をぶってたシモンが思春期(を近く迎えるであろう)子どもの父親として至極まっとうになっていて感心するやらおどろくやら。
今回メインとなる事件が洒落にならない深刻さなので前作のようなコミカルさは薄かった。でもダビードが世界に投げかける「どうして?」はいよいよ学校に入っても健在……というか、学校になじんでしまったら「どうして」は生まれようがないから、事件の発生をもってダビードの社会への問いを法律という規範に及ばせる必要があったんだろうか。
ダビードとともに成長することで父親(代わりの)シモンの規範意識が研ぎ澄まされていくのを追いかけていると、社会規範が言語化されて人の意識の上にのぼるためには「問い」を投げかける存在もまた不可欠なのだなとわかる。ダビードは確かに教祖=イエスなのだろうが、シモンのように周囲に数多の「解釈おじい」がいたからこそ規範が成り立ってしまったんでしょうね、良くも悪くも……
そして三部作完結編『イエスの死』がまだ翻訳されてないと知ってガーンとなってる。そもそも学校時代の次がもう『死』なの? どうなる、ダビード……というよりシモンがどうなってしまうのか気になるよ。
『ペネロピアド 女たちのオデュッセイア』マーガレット・アトウッド(鴻巣友季子 訳)
男性中心の歴史では影になっていた女性を語りの主体に据えた小説は、近年のフェミニズムへの社会的関心の高まりから注目されて増えてはいるのだろうなと思っていたけど、こちらは2005年の作品で、訳者解説によるとそもそもアトウッドがこれらのジャンルのはしりであった…どころか二歩も三歩も先をいってたらしいのですね。はは~恐れ入りました。
こういう軽やかなリズムで読者をぐっと引き込む親しみのある語り口調となると鴻巣訳の本領発揮という感じがする。12人の召使いの女たちのコーラスとして挿入される断章も、序盤の神妙で謎めいた雰囲気から、後半の恨み節炸裂して盛り上げる感じへのダイナミズムがまさにミュージカル。そもそも一つの物語をいろいろな角度から眺めて別の意味を発見するというのが舞台鑑賞の魅力であるし、こういう構造が選ばれたのも必然なのかもしれない。
『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』ペ・スア(斎藤真理子 訳)
あたかも今月読んだかのように書いてるけど読むのに数ヶ月かかりました。ストーリーらしきストーリーがなく、こういう実験的?な小説を読みこなす力はわたしにはないなと思う一方、読んでいる時間が心地よく感じもするのは不思議。
自分自身も記憶を失ったまま旅を続けているような、知らない土地の海べをここがどこか分からないままに歩き続けているような。旅先で迷子になったときの、同じ場所をぐるぐると回っているような、少しずつどこかに近づいているかのような、離れているような、あの感覚。タブツキの『インド夜想曲』や『島とクジラと女をめぐる断片』を思い出した。
「空間」的に彷徨を体験できるのが旅だとするのなら、読書は「時間」の軸を行き来する経験、あるいはそれ以外のもの(他人の記憶や夢や語りを行き来する体験?)なのかもしれない。
パーティというのもキーワードなのか。結婚式、お葬式、演劇の舞台。開かれているようで閉じられた場所。いくつかの印象的な場面が、まるで別の席に座って観る舞台のように少しずつ違った姿で描かれるのもおもしろい。










