耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

2022年12月に読んだ本とか

最近のようす

年末に〈ルートヴィヒ美術館展〉へ行った。たまに美術館に行くたびに心の中のやわらかい場所の扉が開く。知的好奇心がくすぐられ、帰り道はほわほわ〜と浮かされたような気分で歩きながら、頭はすっきりと冴えているような感覚が好きだ。

その日のことを日記に書きたいな〜と思っているうちに1月も終わりになってしまった。

美術館にもっと頻繁に行きたいなと思うものの、家に帰ってスマホをながめる生活に戻ってしまうと、立ちっぱなし歩きっぱなしで疲れるとか、会期が長いのでまた次の休みでも行けると思っているうちに終わってしまうとか、そういうだらりんとした理由で逃してしまう。でも、やっぱり半年以内にはまた行きたいなあ…(と、低めの目標を設定)。

 

今村 夏子『むらさきのスカートの女』 (朝日文庫)

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同世代の作家に近づけば近づくほど人としてのおかしさに没入できる作品を見つけられるのが難しく感じているのだが、今村夏子をわたしはかなり好きだ。他の作品と比べると『むらさきのスカートの女』はかなりわかりやすいというか、より多くの人が自分に置き換えて読みやすいというか、ポピュラーな狂気を書いているなあと思う。ご多分にもれずわたしも読みながら「これは、わたしのことを書いている!!」と思いこんだ。

ただSNSでフォローしている人の感想などをみると「これわたしやん」と言っているひとはあまりおらず、冷静に気味が悪いということを書いている人がけっこういて、これはみんなSNSに書く感想の「正しくあること」気を使っているということなのか、わたしが気味が悪い人間なのかどちらかなのではないかと思う。

 

川上 未映子『ウィステリアと三人の女たち』 (新潮文庫)

言ってみればある種のさみしさを抱えた女たちの短編小説集なのだが、そのさみしさの発露の、おしゃれさ、華やかさを楽しんでしまう。ある意味グロテスクなのに決して湿っぽくならない感じが川上未映子節。

一作目、『彼女と彼女の記憶について』を読んで、全然種類も内容もちがうのだが私自身のどうにも直視できずにいた高校時代の女友達のことを思い出した。ずっと文章にすらうまくできなかったその頃のことを、日記に書いてしまったら、なんかずっと引きずっていたのがどうでも良くなってスッとしたのがうれしかった。

 

山内 マリコ『あのこは貴族』 (集英社文庫)

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『ウィステリア~』と続けざまに読んでいたのは偶然なのだけれど、どちらにも都会であかぬけた女が田舎の同窓会に出席するエピソードが出てきておもしろかった。年末が近かった世間のムードもあり、無意識にそういう本を選びとっていたのかもしれないなどと思う。

そもそもカテゴリもストーリーもちがう小説なので比べるのもどうかと思うが、『ウィステリア~』と比べると『あのこは貴族』の方が類型的というか、ステレオタイプな話には見えてしまうなあとは思った。なのに『ウィステリア~』の方がカラッとした読後感がある。それでいて田舎とか都会とか一般人とかセレブとか、そういう女たちの表面にべたべたとはりつけたラベルみたいなものとは全く関係のない場所で、どうにもぬぐいされないたったひとりの自分みたいなものが立ち尽くしているという感覚があるようで、川上未映子の作品のなかでも『ウィステリアと三人の女たち』はかなり好きだった。

 

氷室 冴子『新版 いっぱしの女』 (ちくま文庫)

不運にも少女時代に通っていた図書館で本を見つけられなかったという理由で、わたしの読書人生は氷室冴子のいる道を通っていないのだが、エッセイが復刊しているのを本屋で見つけて手に取ったら本を手放せなくなって購入してしまった。書かれたのは90年代前半頃なので流石にバブル期を感じさせる描写もあるが、自分の力で働いて生きている「いっぱしの女」として社会に抱く違和感をつづった文章などはおどろくほど古びていない。(経済面の時代背景は瞬く間に塗り替わったのに、そういう点ばかり古びていないのがおかしな話なのだが…)


アニー・エルノー『シンプルな情熱』 (ハヤカワepi文庫)

愛するハヤカワepi文庫に入っていたので気になってはいたものの、題材で尻込みしていた本。どんなジャンルでも不倫という題材が苦手で。ただTwitterでフォローしている海外文学好きの方が強く推しておられたので気になって読んだ。

たしかに不倫ものとしてのストーリーはほとんど皆無、そんなものよりもただ内面を見つめた文章の克明さに息を呑む。なんらかの感情に溺れるときの自我の所在について考える。真にスキャンダラスなのは、不倫をしたという事実ではなく、そのとき内面に湧き上がった感情が詳らかにされることなのだ。まさにシンプルに自分の内側にある「情熱」のことだけ。恥の感覚と、その裏返しである暴露趣味すら消え去っている。

これを文章という形で自らに対してやってのけたうえ、世界に公表するというのは生半可なことではない。ただそれを試みた形跡が文章に残されていることで、著者が真摯に向き合ったのが自身の内面と、テキストそのものであるということが察せられるのがまた、この文章を意味深いものにしていると思う。

 

ヘンリー・ジェイムズ『デイジー・ミラー』 (新潮文庫)

たぶんこれは欧州の旧弊な価値観とアメリカの新しい価値観を対比させ、結局はヨーロッパの瘴気に(精神的な面でも)絡め取られてしまうアメリカ人の話…という読み方がセオリーなのかなと思ったが、わたしとしてはその辺りの事情にそれほど興味が湧かない。

単純に個人の権利の話として読んだ時に、デイジーは一人の人間の主張として全く何一つおかしなことは言っていない。ここで批判的に書かれている(と思われる)旧弊な価値観とは男社会の論理という言い方もできるのかもしれない。著者はこの小説に込められた皮肉をどのくらい意識して書いていたのだろうか。

自分の中でわだかまりのある結末だったので、お正月のフェミニズムの番組を見ながらも思い出していた。

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