耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

再読 ダフネ・デュ・モーリア『レベッカ』〜レベッカは悪女なのか問題

突然気が向いて『レベッカ』を読み返していた。夜の時間、家にはひとり、窓から入り込むひんやりとした風を感じながらぞくぞくするような世界に没頭する読書。幸せ。そしてこの本やっぱりものすごく面白いです。

 

 

 

(以下、かなりのネタバレ記述をします。間違いなく面白いサスペンス小説なので、未読の方はどうか読まれませんよう)

 

 

どこか謎めいて暗く美しい瀟洒な洋館、マンダレー。このマンダレーの印象が強かった、初読のときは。しかし下巻のひとつの読みどころは語り手「わたし」の蛹から蝶になるような変化だ。おどおどと周りの目を気にして、マンダレーの女主人になるどころか過去の幻に取り込まれあやうく命を無くしそうにすらなる「わたし」が、あるきっかけから少女を卒業し、自分に自信を得る。といってもその「自信」とは、夫マキシムが亡くした前妻レベッカのことを「忘れられず、まだ愛している」のではなく「まったく愛していない」とはっきりわかったからであり、前妻を引きずっていると思っていたマキシムが彼自身の過去の負い目を打ち明けてくれたからというだけなのだが。

しかし彼女自身の内側から湧き出た自信ではないとはいえ、彼女にとってはその経験を通して初めて夫と対等になれたわけだ。それなのに、配偶者であるマキシムがその変化を好ましくない、残念なことと捉えているのがなんとも気色悪かった。客観的に読者から見れば(そして彼女本人の感じ方も)良い方向の変化に思えるのに。

そもそもマキシムは「わたし」よりもかなり年上なのである。基本的に語り手の「わたし」はマキシムが好きで、彼に気に入られて人生を変えたい一心でマンダレーまで着いてきた人なので、マキシムのことを否定するような描写は一切しない。だが、語り手によって書かれていないマキシムという男の嫌な部分を意識して読んでみると、この小説のもう一つの不気味さが浮かび上がってくるようだ。

 

レベッカという人間の「本当の姿」も「わたし」はマキシムやほかのだれかが語るようにしか知ることができない。(レベッカの身分が高いために目下の人たちは滅多なことは口にできないし、上品な人々が社交の場でやたらと本音を直接的には口にしないということが叙述トリックのように巧みに利用されている。)結局レベッカがどうしようもない女だったということがマキシムの口から明かされた後も、いやそもそもマキシムの女を見る目がゆがんでいて対等な人間として女を見ていない以上、レベッカはそこまで人として酷いわけではなかったんじゃないの?と思え、マキシムの信用度はさがる一方だ。同著者の小説『レイチェル』を読んだときも思ったのだけど、男性中心主義社会が都合の悪い女のことを「悪女」と呼びがち問題というのはありますよね。

もうひとつマキシムについて言いたいのは下巻262ページ。森に住み着いている知的障碍者のベンがマキシムに不利な証言を絶対にしないものの、そのビクビクした態度からして何者かに虐待されていたのではないかということを匂わせられている。その前にもベンは「施設にはやられたくない」と怯える描写があり、レベッカが陰で弱いものいじめをする裏のある女だったのでは?と「わたし」が考える場面になっていたのだが、実際は自分に不都合なところを目撃されたと考えたマキシムが、ベンに口外させないよう虐待していたように思われる。

 

さて、すべての真相はおそらく男嫌いだったレベッカの最後の復讐だったのだろう。どんなに知的で高い審美眼を持ち、ユーモアのセンスや人間的魅力にあふれていても、結局は女としてしか見てこない夫や愛人たち。おそらくマキシムは自信なさげで控えめにしているような女が好みで、活発で自分の人生をものにしているレベッカのような女が理想の妻とは異なっていたんじゃないかと思う。

レベッカにしてみれば、自分を支配するのは男なんかじゃない、むしろ自分が男たちを手玉に取って笑ってやるんだ、という気概があったのだろう。「気概」という言葉は自信を持つようになる前の「わたし」が何度も「わたしには気概がない」という言い方で使う言葉だ。不在ゆえに理想であり続けるレベッカの最高の美徳。

 

皆がいなくなったレベッカの影を追い求めている場所で、「わたし」がレベッカの影に苦しめられる話なのだと思ったけれど、真相があきらかになっていくにつれてレベッカという女の「生々しさ」もまた見えてくる。レベッカの生々しさというのは、男を蔑んで弄んで喜ぶような女である、といういわば「下劣さ」みたいなものもあるが、そもそもレベッカがそういった歪んだ男性嫌悪を露わにするようになったのは、彼女のなかに女の身体を持って生まれてしまったことへの苦しみがあったからなのではないか。ロンドンを行き来する彼女の自由な暮らしというのは性別を反転させればそれほど非難されるものではなかったかもしれず、性別を理由に淑女として妻として、女主人の役割を被せられる。事件の発端が彼女の身体を蝕む婦人科系の癌というのも暗喩的である。

そうして幻の中にみていたレベッカの生身の魅力がなくなるにつれて、天秤の反対側が吊り上がっていくように、レベッカの創作物であるマンダレーの魅力が増していく。彼女が才能と財産をつぎ込んで整え、作り上げたマンダレーの屋敷、調度品、自然環境、そして習慣という形で刻まれていく日常。

ダンヴァース夫人は耐えられなかったのだ、レベッカの精神の顕現ともいえるマンダレーが、少しずつ他の人間に侵食されていくことに。それくらいなら記憶の幻の中に永遠の存在であった方がよかったのだと。

 

最後に少し付け足し。訳者あとがきによればデュ・モーリアはお父さんが大好きだったけれど父親は同性愛を毛嫌いしてたのでバイセクシャルであることに葛藤があったとか、お父さんが男の子をほしがっていたのに三姉妹だったから自分は子供のころ男の子だと思い込んでいたといった逸話が書かれているのを読んだ。作者がレベッカに自身のアイデンティティと父親と葛藤を投影したという読み方ができるということが、明言は避けているものの(色々な意味で危うい読み方だとは思うので)さりげなく示唆されていたのに、全然そこに思い至らなかった以前のわたしってばぼんやりさん………という気分である。

ヒッチコック映画への言及もあるが、今となってはデュ・モーリアの伝記を映画化すべきでは?などと軽率に考える。

 

あとあまり本筋と関係ないけど思わずツッコミをいれた描写。

(略)郡部の町の街道沿いに必ずといっていいぐらいにある、古めかしいホテルで昼食にした。ジュリアン大佐は、スープと魚料理にはじまってローストビーフとヨークシャープディングでしめくくる定食をたいらげたが、わたしとマキシムは、コールドハムとコーヒーだけで済ませた。

ジュリアン大佐よ…。同席した人たちが明らかに食の進まない様子でコーヒーとハムしか食べてないのにフルコース食べるってそんなことある?食べる時間全然違うだろうに間が持ったのだろうか。緊迫した場面なのにちょっと笑ってしまった。